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陶 濬(とう しゅん、生没年不詳)は、中国三国時代の呉の武将。揚州丹陽郡秣陵県の人。字は世淵。父は陶基。兄は陶璜。弟は陶抗。子は陶湮(字は恭之)・陶猷(字は恭豫)。孫は陶馥。甥は陶回。『三国志』呉志に記述がある。また、子孫や一族については『晋書』「陶璜伝」に記述がある。 == 生涯 == 父は交州刺史であった。兄も交州方面で活躍し、後に使持節・都督交州諸軍事・前将軍・交州牧となった。弟は太子中庶子となっている〔『晋書』「陶璜伝」〕。 天紀3年(279年)夏、郭馬が広州で叛乱を起こした。郭馬は都督交広二州諸軍事・安南将軍を自称し、広州刺史と南海太守を勝手に任命した上で、さらに蒼梧郡・始興郡へ侵攻してきた。同年8月、滕脩が1万の兵士を率いて慌ただしく追討に赴いたが、始興で抵抗を受け先に進めなくなった。このため、徐陵督であった陶濬が7000人を率いて、兄と協力して援軍に赴くことになった〔『三国志』呉志「三嗣主伝」〕。 同年冬、晋が大軍を動員して呉に侵攻してきた。陶濬は交州への援軍に向かっている最中、武昌において晋の侵攻を聞いたため、広州には向かわなかった〔『三国志』呉志「三嗣主伝」〕。 翌年(280年)、呉軍が各地で敗北を重ねる中、陶濬は武昌より建業へと帰還し、孫皓に謁見した。陶濬は「益州方面から侵攻してきた晋の船は小さいものばかりであり、大船と2万の兵があれば撃退可能です。」と上奏して許され、節と鉞を与えられた。陶濬が敗残の軍を一つにまとめて晋軍を迎え撃とうとしたが、一夜のうちに兵が怯え逃げてしまった。この一件で孫皓は完全に戦意を喪失し、降伏する事となった〔『三国志』呉志「三嗣主伝」〕。 最終官位は、鎮南大将軍・荊州牧までになったという〔『晋書』「陶璜伝」〕。 2人の子はそれぞれ晋で官職につき、名声を得たという〔『晋書』「陶璜伝」〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「陶濬」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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