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陸奥介 景綱(むつのすけ かげつな、生没年不詳)は、日本の鎌倉時代に陸奥国八幡荘、現在の宮城県多賀城市の一部と仙台市の一部を領した鎌倉幕府の御家人である。父は不明、祖父は陸奥介景衡。 == 事績 == 陸奥介氏が地頭として支配した八幡荘は、陸奥の国府から南に少し離れた比較的狭い小地域だが、祖父景衡の代に八幡荘の一部、萩園郷が飯高氏に、蒲生郷が那須氏の手に渡った。その後萩園と蒲生は境界争いを起こしており、その状況が固定したようである。 景綱は永仁7年(1299年)2月に八幡荘内にある末松山八幡宮(八幡神社)に鐘を奉納した〔『宮城県史』第1巻(古代史・中世史)232頁。〕。 この頃景綱は、召米以下の公事の負担について、蒲生郷を領した那須高頼と争いを起こし、円阿という僧を代理にして訴訟していた。その結果、永仁7年(1299年)1月28日に両者が和解の状を出し、これを正安2年(1300年)12月20日に鎌倉幕府が承認して決着した。和解条件は、景衡が負担する八幡荘の公事の5分の1を高頼が出すというものであった〔『仙台市史』第8巻(資料編1)27頁、資料番号53、「前出羽守藤原朝臣等連署施工状(大島正隆氏採訪白河文書)」。『仙台市史』通史編2(古代中世)235頁。『宮城県史』第1巻(古代史・中世史)255頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「陸奥介景綱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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