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陸実 : ミニ英和和英辞書
陸実[りく, ろく]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [りく, ろく]
 (adj-na,n) six (used in legal documents)
: [み, じつ]
 【名詞】 1. fruit 2. nut 3. seed 4. content 5. good result 

陸実 ( リダイレクト:陸羯南 ) : ウィキペディア日本語版
陸羯南[くが かつなん]

陸 羯南(くが かつなん、安政4年丁巳10月14日1857年11月30日) - 明治40年(1907年9月2日)は、日本国民主義の政治評論家。日本新聞社長。正岡子規を育てた。幼名は巳之太郎、のち実、号が羯南。
== 生涯 ==
弘前藩の御茶坊主頭・中田謙斎と妻・なほ(旧姓、種市)の子として、陸奥国弘前(現・弘前市)在府町に生まれた。長男・次男の両説がある。謙斎は微禄だった。
明治4年(1871年)頃から、藩校の教官・工藤他山の私塾・思斉堂に学び、明治6年(1873年)、旧藩校の後身・東奥義塾へ進み、明治7年(1874年)に宮城師範学校に転じたが、明治9年(1876年)に校長・松林義規(旧大村藩士〔陸羯南 国民主義を唱えた近代ジャーナリズムの先駆者 〕)に逆らい退校処分を受けた。上京し、フランス法律学専修の司法省法学校に合格し青春を楽しむうち、明治12年(1879年)に賄征伐(調理場荒らし)のいたずらの譴責がこじれ、羯南は犯人でなかったが、義憤から原敬福本日南加藤恒忠国分青崖らと退校した。校長は薩摩人の植村長〔『陸羯南全集10』、p.250〕、東北人の薩長への反感は残っていた〔『陸羯南全集10』、p.254〕。
帰郷して新聞社に入り、讒謗律で2度罰金を受けた。さらに北海道の官立の製糖所に勤め、不本意な日々を送った。この時期、親戚の陸治五兵衛の絶家を再興して陸姓になった。
明治14年(1881年)、上京し、新設の農商務省などのフランス語の翻訳を下請けして食いつないだのち、明治16年(1883年)、太政官御用掛となり、新設の文書局に勤めた。この頃、加藤恒忠の甥の正岡子規の訪問を受けた。翌年、依田學海らの媒酌で、今居てつと結婚し、後に1男7女をもうけた。
明治18年(1885年)、文書局が廃止され内閣官報局ができ、その編輯課長に昇進したが〔このときの局長が高橋健三で、『日本』発刊に助力しした。〕、明治21年(1888年)春に依願退職した。このころ第1次伊藤内閣の欧化主義、特にその条約改正反対運動が国民的な規模で高まっていた〔丸山真男著『戦中と戦後の間 1936 - 1957 』みすず書房 1976年 282ページ〕。この年に谷干城小村壽太郎高橋健三杉浦重剛らに援けられ『東京電報』紙を創刊したが売れず、翌春廃刊(改題して)し、さらに浅野長勲の援助も受けて日本新聞を創刊し、主筆兼社長となった。時に羯南33歳であった。
創刊の辞は次のような趣旨だった。〔『言論とメディア』、岩波書店 日本近代思想大系11(1990)ISBN 400230110 p.175〕
そして早速、『日本人』誌と共に、大隈重信の条約改正案の『まやかし』を非難して、評判を呼んだ。
明治23年(1890年)、東邦協会の設立に参画して評議員となり、また、国家経済会設立の発起人になった。『近時憲法考』・『自由主義如何』・『大臣論』『近時政論考』〔羯南の日本主義の立場が最も集約的に表明されているのは、明治23(1890)年7月20日から一ヶ月にわたって『日本』紙上に掲載したこの論文である。(丸山真男著『戦中と戦後の間 1936 - 1957 』みすず書房 1976年 282ページ)〕・『国民論派』(ナショナリズム)などを発表し続けた。「政治は世論に従うべき」の信念に徹していた。
明治25年(1892年)、隣りに移り住んだ正岡子規を支援し、紙面を提供し、生活の面倒を最期まで見た。子規は「生涯の恩人」と泣いた。
明治28年(1895年)、三国干渉に対し受け入れ論の東京日々新聞と論戦した。明治29年(1896年)、各社新聞同盟を結成し、新聞紙条例撤廃の運動を主導し、翌年、条例を緩和させた。この年、樽井藤吉・中村太八郎らが創設した社会問題研究会の評議員に、明治31年(1898年)、創立された東亜同文会の幹事長になった。明治33年(1900年)、近衛篤麿富田鉄之助らと、日露開戦やむなしと議し、また、国民同盟会に相談役として参画した。翌年、近衛に従い清国韓国を視察した。近衛から日本新聞への資金援助を得た。
明治35年(1902年)、『日本人』誌の三宅雪嶺の外遊中、その社説執筆を分担した。以前から『日本新聞』と『日本人』誌とは一心同体的に親密だった。
明治36年(1903年)から翌年にかけ、米欧に旅行し、帰国後静養中に肺結核を発症し、明治38年(1905年)夏からは三宅雪嶺が『日本新聞』の社説を書いた。
明治39年(1906年)6月、健康不良と経営悪化から、『日本新聞』を伊藤欽亮に譲渡し、引き続き社説欄を担当した。その後に起きた社内の騒動を憂慮した。明治40年(1907年)7月から喀血を繰り返し、9月2日に亡くなった。51歳であった。戒名は文正院介然居士。墓は染井霊園にある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kuga Katsunan 」があります。




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