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陸 胤(りく いん;ピンイン:Lu Yin;ベトナム語:Lục Dận)(生没年不詳)は、中国三国時代の呉の人物。字は敬宗。揚州呉郡呉県(江蘇省蘇州市)の出身。兄は陸凱。子は陸式。 == 生涯 == 若い頃、侍御史・尚書選曹郎の役職にあり、名声があったため、後に孫和から礼を持って遇された。全寄や楊竺が孫覇を担ぎ、孫和派(太子派)と孫覇派(魯王派)との争いが勃発する(二宮の変)と、陸胤も孫和とつながりがあったため讒言に遭い、投獄されて拷問を受けた。しかし陸胤は他者に責任を転嫁する発言を一切しなかった。『呉録』によると、孫権と孫覇派の楊竺が孫和の廃嫡を密談していたことを下働きの者を経由して耳にしたため、武昌の孫和の元に赴いた上で、一族の陸遜に諫止の上表を依頼した。孫権が、密談の内容を漏洩した者を探し出すため楊竺を詰問すると、楊竺は陸胤の名を出した。また陸遜もそれを認めたため、陸胤は楊竺とともに収監されてしまった。しかし陸胤は孫和を庇おうとして、楊竺が密談を漏らしたと嘘をついたという。このため楊竺は処刑されたとある。 ニ宮の変が一段落すると、衡陽督軍都尉となった。赤烏十一年(248年)には、交州の趙嫗の反乱を押さえるため交州刺史・安南校尉となって赴き、反乱の首魁の黄呉を降参させた。この功で安南将軍を加官された。その後も周辺の郡の反乱を鎮圧し、降伏者を兵士として軍に編入し強勢を誇ったという。 太平三年(258年)、孫休が即位すると、陸胤は交州から召還され西陵督に任じられた上で、都亭侯に封ぜられた。後に虎林の地の守備に就いたという。華覈は陸胤を高く評価し、中央に召還し高い地位を与えるよう朝廷に上奏した。 その後の、陸胤の記述は途絶えており、没年も不明である。 子の陸式が爵位を継ぎ、柴桑督、揚武将軍となったが、天冊元年(275年)には孫皓によって、陸胤の兄の陸凱の一族と共に交州に強制移住させられた。しかし、天紀二年(278年)には建業に呼び戻され、元の将軍の号と侯の爵位とを与えられた。 陳寿は陸胤を「清廉潔白で職務に励み、南方で名声を得た」と評している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「陸胤」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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