翻訳と辞書
Words near each other
・ 陸軍習志野演習場
・ 陸軍習志野衛戍病院
・ 陸軍習志野錬兵場
・ 陸軍自動車学校
・ 陸軍航空士官学校
・ 陸軍航空審査部
・ 陸軍航空技術学校
・ 陸軍航空技術研究所
・ 陸軍航空整備学校
・ 陸軍航空本部
陸軍航空総監
・ 陸軍航空総監部
・ 陸軍航空通信学校
・ 陸軍航空部
・ 陸軍航空隊
・ 陸軍航空隊 (イギリス)
・ 陸軍航空隊 (スペイン)
・ 陸軍船舶兵
・ 陸軍船舶司令部
・ 陸軍衛戍病院


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

陸軍航空総監 : ミニ英和和英辞書
陸軍航空総監[りくぐん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [りく, ろく]
 (adj-na,n) six (used in legal documents)
陸軍 : [りくぐん]
 【名詞】 1. army 
: [ぐん]
  1. (n,n-suf) army 2. force 3. troops 
航空 : [こうくう]
 【名詞】 1. aviation 2. flying 
: [そら]
 【名詞】 1. sky 2. the heavens 
: [そう]
  1. (n,pref) whole 2. all 3. general 4. gross 
総監 : [そうかん]
 【名詞】 1. inspector general 2. commissioner 

陸軍航空総監 ( リダイレクト:陸軍航空総監部 ) : ウィキペディア日本語版
陸軍航空総監部[りくぐんこうくうそうかんぶ]

陸軍航空総監部(りくぐんこうくうそうかんぶ)は、日本陸軍における中央統轄機関のひとつ。直接天皇に隷属し〔隷属(れいぞく)とは固有の上級者の指揮監督下に入ること。単に指揮系統だけでなく、統御、経理、衛生などの全般におよぶ。『帝国陸軍編制総覧 第一巻』61頁〕、主として陸軍における航空関係の教育を統御、管理した。1938年昭和13年)12月に設立され、1945年(昭和20年)4月に「当分のうち」という条件で閉鎖となり、同年8月の太平洋戦争大東亜戦争)終結に続く陸軍解体のため再開されることはなかった。
== 沿革 ==

=== 航空総監部設立前史 ===

日本の陸軍航空は1904年明治37年)、日露戦争で臨時気球隊が初めて実戦に参加し、同戦争後の1907年(明治40年)、近衛師団に属する交通兵旅団に気球隊が置かれたのが最初の常設部隊であった〔『陸軍航空兵器の開発・生産・補給』4-5頁〕。飛行機に関しては、1909年(明治42年)に臨時軍用気球研究会が設立され本格的な研究および運用が始まり、第一次世界大戦で航空隊の臨時編成を経て、1915年大正4年)12月に航空大隊が設立された。1917年(大正6年)、航空大隊は2個編成となり、翌年以降さらに大隊の数を増やしていった。この間、明治の気球隊から各航空大隊にいたるまで陸軍航空の人員は各兵科からの混成であり〔将校、准士官、下士官は憲兵科を除く各兵科、兵は工兵科のみであった。『陸軍航空の軍備と運用 (1) 』248頁〕、運用は工兵科に準じた扱いであった。
当時の陸軍は軍政(軍事に関する政務)統帥〔「軍令」と表現する場合もある。〕(軍隊の指揮運用)教育(軍人の訓練育成)の3つの機能を、軍政は陸軍大臣陸軍省)、統帥は参謀総長(参謀本部)、教育は教育総監(教育総監部)が分立して担当し、それぞれが天皇に直接隷属していた。これがいわゆる「陸軍三長官」であり、それぞれの官衙〔官衙(かんが)とは一般には官庁あるいは役所を意味する。陸軍の官衙は陸軍省、参謀本部など東京に置かれた大規模なものだけでなく、各地の連隊区司令部や、陸軍病院、陸軍監獄なども含まれる。『陸軍読本』58-68頁〕は総して「中央統轄機関」とも呼ばれた〔『陸軍読本』56-57頁〕〔『新陸軍読本』162-163頁〕。
1919年(大正8年)4月、陸軍航空部が創設された。これは航空に関する事項の研究、器材の製造、補給など軍政と、飛行機操縦教育、器材整備教育など航空関係専門の教育を統轄する機関である。陸軍の教育は原則として教育総監部の管轄であったが、日進月歩で変わっていく航空技術の特殊性を重視して、軍政の中央統轄機関である陸軍省の隷下に設けた陸軍航空部が軍政と教育をあわせて掌(つかさど)ることとなった〔『陸軍航空兵器の開発・生産・補給』38頁〕。
1925年(大正14年)5月、各兵科の混成であった陸軍航空は独立した航空兵科となり〔軍令 陸第6号 『官報』第3802号、1925年4月28日 〕、同時に陸軍航空部も陸軍航空本部(以下、航空本部と略)に昇格した。航空本部は従前の陸軍航空部と本質的な機能に大きな違いはなかったが、人員および編制が増強された〔『陸軍航空の軍備と運用 (1) 』255-256頁〕。これ以後も時代が進むとともに航空兵科は拡大を続け、航空本部は陸軍航空に関する軍政と専門教育を掌る機能を保ったまま、何度かの編制改定により権限を強化していき陸軍省の外局となった。
1936年(昭和11年)11月、陸軍省は翌年より6か年計画となる「軍備充実計画ノ大綱」(通称「一号軍備」)を策定した〔『帝国陸軍編制総覧 第一巻』68-70頁〕〔『陸軍航空の軍備と運用 (1) 』514-516頁〕。一号軍備では航空兵力の増強が重視され〔『日本陸軍航空秘話』275頁〕、この頃から「航空優先」という標語が陸軍中央で使われるようになった〔『陸軍航空の軍備と運用 (1) 』505頁〕。ところが実態は陸軍の中で最後発である航空兵科には中核となる機関が存在せず、地位も高いとはいいがたいものであった。「航空優先」の標語には、いささか揶揄的な「地上絶対」(航空兵科が優先ならば、歩兵等の地上兵科は優先を上回る絶対的存在という意味)という言葉が対となって使われた〔『陸軍航空史』265頁〕〔『日本陸軍航空秘話』65,260,263,288頁〕。
一号軍備の策定と前後する1936年の陸軍中央機構革新の流れの中で、海軍航空と合同しての「航空省」を創設する案〔『陸軍航空の軍備と運用 (1) 』484-488頁〕、あるいは陸軍省内に「航空局」を置く案が検討されたが、いずれも実現しなかった〔『陸軍航空の軍備と運用 (1) 』504-505頁〕。その一方で航空本部は天皇直隷となる「航空総監部」創設の意見を上申した。この場合の「航空総監部」は単に教育ばかりでなく、航空の軍政および航空部隊の統率も行う案であった〔『陸軍航空の軍備と運用 (1) 』506頁〕。しかし陸軍首脳はこれに同意せず意見は保留となり、部隊統率機関としては航空兵団司令部が新設された。前述の各案は「空軍」創設を究極の目標とする陸軍航空の独立強化思想に根差したものであるが、1937年(昭和12年)7月に勃発した日中戦争支那事変)により、航空独立の論調は一時的に慎重なものへ変化していった〔『陸軍航空の軍備と運用 (2) 』22-23頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「陸軍航空総監部」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Inspectorate General of Aviation 」があります。




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.