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陸 錦(りく きん)は清末民初の軍人。北洋系、直隷派に属した。字は繍山。 == 事績 == 北洋武備学堂を卒業後、1899年(光緒25年)に日本へ留学する。陸軍士官学校第1期砲兵科を卒業した。1903年(光緒29年)に帰国し、北洋測絵学堂で教官に任じられる。後に段祺瑞・馮国璋の錬兵教育事務を補佐した。北洋参謀処総弁に昇格後、1909年(宣統元年)、山東・直隷軍事参議官に転じる。 1912年(民国元年)、直隷都督署軍事参議官となる。翌年、同署参謀長に昇格した。10月、天津鎮守使となる。1914年(民国3年)7月、北京政府将軍府参軍兼軍務庁庁長に異動した。1917年(民国6年)7月の張勲復辟では張勲を支持し、愛新覚羅溥儀から陸軍部左丞に任命されている。張勲失脚後も、そのまま政府にとどまり、参謀本部次長に任命された。 1919年(民国8年)12月、敏威将軍の位を授与された。翌年9月、陸軍第9師師長となる。1922年(民国11年)11月、直魯豫三省巡閲使署参謀長を兼ねた。1924年(民国13年)1月、大総統曹錕の下で陸軍総長に任命される。同年9月、第2次奉直戦争で直隷派が敗北するとともに、下野した。1926年(民国15年)5月、臨時執政段祺瑞の再度の失脚に伴い一時復帰したが、張作霖により直ちに罷免される。以後は天津に寓居した。 1939年(民国28年)1月30日に呉佩孚が「和平救国宣言」を発表した際には、陸錦も和平救国会連盟の構成員として同宣言に連署している〔「和平救国会宣言を発表 呉氏運動の動向決定 愈々近く開封に出陣」『東京朝日新聞』昭和14年(1939年)1月31日、2面。〕。ただし、陸が連署に至るまでの経緯や活動の具体性については不詳である。 1946年(民国35年)、天津で病没。享年68。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「陸錦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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