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隅田 滿壽代(すみだ ますよ、1874年 - 1936年6月26日)は、日本の女優である〔キネマ旬報社, p.381-382.〕〔''隅田満寿代''、''jlogos.com'', エア、2013年5月8日閲覧。〕〔''隅田ますよ''、''隅田ます江''、日本映画データベース、2013年5月8日閲覧。〕〔''隅田満寿代''、''隅田万寿代''、''隅田ます代''、日本映画情報システム、文化庁、2013年5月8日閲覧。〕〔''隅田万寿代''、''隅田ます代''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月8日閲覧。〕。新字体表記隅田 満寿代〔〔〔〔。初期芸名隅田 ます江(すみだ ますえ)、キャリアの後期に新興キネマに所属して以降は隅田 ます代とクレジットされることが多かった〔〔。ほかにも隅田 万寿代、隅田 ますよ、隅田 満州代、隅田 マスヨ、住田 ますよと表記に揺れがある〔〔。50代で映画女優になり、多くの作品で老け役をこなしたことで知られる〔〔。 == 人物・来歴 == 1874年(明治7年)、北海道に生まれる〔〔。 1925年(大正14年)、満51歳で帝国キネマ演芸に入社した〔〔、とされるが、記録に残る最初の映画出演は、同社小坂撮影所が製作した『情熱の火』(監督中川紫朗)で、同作は、1924年(大正13年)3月20日に公開されている〔〔。翌年の同社内紛においては、アシヤ映画製作所に所属して映画に出演、内紛平定後は同社芦屋撮影所に所属した〔〔。同年9月3日に公開された『隼七之助 後篇』(監督馬場春宵)を最後に同社を去り、マキノ省三が同年6月に京都に設立したマキノ・プロダクションに移籍した〔〔。1928年(昭和3年)からの一時期、東京の河合映画製作社の作品に出演した記録があるが、1929年(昭和4年)7月12日に公開された『悪の華七部集の内直助権兵衛』(監督鈴木桃作)を最後に、マキノに復帰している〔〔。同年7月25日には、牧野省三が亡くなっており、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になったが、隅田の名は、「俳優部女優」には見当たらない〔1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録 、立命館大学、2013年5月8日閲覧。〕。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1930年(昭和5年)2月28日に公開された『祇園小唄絵日傘 第一話 舞の袖』(監督金森万象)を最後に退社している〔〔。 マキノ退社後、松竹下加茂撮影所を経て、1931年(昭和6年)には、京都の新興キネマに移籍、以降、「隅田 ます代」とクレジットされるようになる〔〔。1935年(昭和10年)には、東京に新設された新興キネマ東京撮影所に異動になり、現代劇のサウンド版やトーキーにも出演した〔〔。東京撮影所では「隅田 満寿代」とも「隅田 万寿代」ともクレジットされている〔〔。 1936年(昭和11年)4月15日に公開された『浮かれ桜』(監督曾根千晴)に出演後、「貧血補充不可能症」「脂昉過多症」で東京府東京市(現在の東京都)の慶應義塾大学病院に入院、同年6月26日、死去した〔〔。満62歳没〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「隅田満寿代」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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