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隅田公園駅 : ミニ英和和英辞書
隅田公園駅[すみだこうえんえき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [すみ]
  1. (n,n-suf) corner 2. nook 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [こう]
  1. (n,suf) prince 2. lord 3. duke 4. public 5. daimyo 6. companion 7. subordinate
公園 : [こうえん]
 【名詞】 1. (public) park 
: [その]
  1. (n,n-suf) garden (esp. man-made) 2. park 3. plantation 
: [えき]
 【名詞】 1. station 

隅田公園駅 : ウィキペディア日本語版
隅田公園駅[すみだこうえんえき]

隅田公園駅(すみだこうえんえき)は、かつて東京都本所区〔休止時。なお休止年の7月までは東京府東京市本所区。現在は東京都墨田区〕〔隅田公園駅の情報 - 鉄道地図検索(地図表示あり)、2014年2月2日閲覧〕に存在した東武伊勢崎線鉄道駅
==概要==
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災ののち、東武鉄道は従来ターミナル駅としていた浅草駅〔延伸時に業平橋駅と改称。現在のとうきょうスカイツリー駅〕から花川戸を経由して上野駅にいたる距離3.9キロの高架線の免許申請を行った〔#佐藤、浅香 (1986) p.172〕。状況さえ許せば東京駅にも進出する腹積もりであったが、最終的には花川戸までの1.1キロのみが免許されたにとどまった〔。同じころ、隅田川畔に震災復興公園の一つである隅田公園が設置されることとなり、公園の予定地と東武の計画線が重なることとなったが、東武への免許には「路線が公園内を通過しないこと」と、「公園の利用と風致を阻害しないような施設を建設すること」の2つが条件として付されていた〔。延長工事は1927年(昭和2年)12月15日に開始されたが、浅草雷門駅〔現在の浅草駅〕と隅田川橋梁の設計変更がしばしばあったことから工事は伸び気味となった〔#佐藤、浅香 (1986) pp.172-173〕。このような紆余曲折の末、予定より1年5か月遅れた1931年(昭和6年)5月25日、ついに浅草雷門駅までの延伸を果たした〔#佐藤、浅香 (1986) p.173〕。延長線部分は「雷門線」とも「花川戸線」とも呼称された〔建設当時の資料は「雷門線」(#佐藤、浅香 (1986) p.171)、1964年(昭和39年)刊行の『東武鉄道六十五年史』 pp.159-160 では「花川戸線」(#佐藤、浅香 (1986) p.172)。〕。
隅田公園駅は、延伸区間で唯一の中間駅として開設された。浅草駅を発車した列車が、隅田川橋梁を渡ってカーブを通過した所にあり、駅のロケーションは北十間川の北縁かつ隅田公園の南縁に沿う形で設置され、名前の通りに公園の最寄り駅となった〔。立派なホーム上屋を持つ高架駅であって〔、ホームの有効長も長く取られていた。また構内には分岐器があり、このことから「停車場」として扱われていた〔隅田公園駅に関する申請書は「隅田公園停車場」と記述(#佐藤、浅香 (1986) pp.174-178)。〕。しかしながら、駅の利用率は近接の浅草雷門、業平橋に近かったためかわずかであり〔#佐藤、浅香 (1986) p.174〕、太平洋戦争による戦時体制が濃くなった1943年(昭和18年)には東上線玉淀駅亀戸線虎橋通駅〔曳舟 - 小村井間にあった()。〕とともに不要不急駅の整理の対象となって廃止されることとなった〔〔玉淀駅は1951年(昭和26年)9月7日に再開業。〕。もっとも廃止申請の際、隅田公園駅のみ「向こう3年の休止」として申請された〔。昭和18年12月24日付で許可書が届き、隅田公園駅はこれに基づいて昭和18年12月30日限りで休止となった〔#佐藤、浅香 (1986) p.175〕。駅施設は休止中の1945年(昭和20年)3月9日から10日にかけての東京大空襲で焼失した〔#佐藤、浅香 (1986) p.175,177〕。
戦争終結後も休止申請を繰り返し行っていたが、1958年(昭和33年)にいたって、同じく休止中であった亀戸線十間橋通駅〔虎橋通駅同様、曳舟 - 小村井間にあった()。〕とともに正式に廃止されることとなり、隅田公園駅は営業再開する事無く、昭和33年10月22日に廃止認可申書が届いたことにより正式に廃止となった〔#佐藤、浅香 (1986) pp.176-178〕。構内の分岐器は、当初東武は非常用に残す方針であったが、最終的には撤去された〔#佐藤、浅香 (1986) pp.177-178〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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