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隋(呉音: ずい、漢音: すい、 、581年 - 618年〔宮崎市定は「隋代史雑考」(中公文庫版『隋の煬帝』所収)において、隋は恭帝侗が帝位を奪われる619年まで存続していると説いた。しかし、唐の編纂した正史である『隋書』等では、618年に恭帝侑が唐に禅譲した時点をもって隋が滅んだものとしており、また『隋唐帝国』(布目潮渢、栗原益男著)では煬帝が暗殺されたことをもって隋が滅んだものとしている。本項ではより一般的と考えられる618年を滅亡年としている。〕)は、中国の王朝。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城(長安、現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。当時の日本である倭国からは遣隋使が送られた。 == 国号 == 隋という国号(王朝名)は建業者である高祖楊堅の北周時代の爵号である隨(随)国公に因む。この隨(国)は地名で現中華人民共和国湖北省随州市に名を遺しているが、唐の時代までは「隨」の略字として辵部(しんにょう、辶)を省いた「隋」と相互に通用され、さらにその「隋」から「エ」を省いた「陏」の字が用いられる事もあり〔陏の例としては開皇13年(593)の曹子建墓碑(曹子建の墓碑)がある。〕、その後、恐らくは中唐以降に「隨」と「隋」とは区別されて地名は「隨(随)」、王朝名は 「隋」と固定したようである。その後、高祖楊堅が「隨」字に含まれる辵部に「走る」という字義があって前代迄の寧所に遑なく東奔西走した歴代を髣髴させるためにこれを去り、自らの王朝を「隋」と名付けたとする説、及び辵部には平穏に歩を進める字義がある一方で「隋」には供物としての肉の余りという字義があり、楊堅は改字によって却って王朝の命運を縮めたという附会説も行われ、これが宋朝の儒学者たちの儒教的史観に依る革命解釈に適合するものとして喜ばれたために、以降はこの楊堅改字説が定説となった〔宮崎前掲論考。文献上で確認できる楊堅作字説の嚆矢は南唐の徐鍇『説文繋伝』という。〕。 == 歴史 == === 出自 === 隋の皇室である楊氏は『隋書』に拠れば、後漢代の有名な官僚・楊震の子孫にあたるという。楊震は、かつての教え子が「誰も知らないことですから」と賄賂を渡そうとしたところ、「天知,神知,我知,子知,何謂無知(天地の神々が知っている。私とあなたも知っている。誰も知らぬとどうして言えよう)」と言って拒否したという四知の逸話で有名な人物である。その後、楊氏は北魏初期に武川鎮へと移住し、楊堅の父・楊忠に至るという。武川鎮とは北魏に於いて首都・平城を北の柔然から防衛する役割を果たしていた軍事基地のひとつである(武川鎮軍閥、六鎮の乱などを参照)。 北魏において、皇室の拓跋氏を元氏に変えるといった風に、鮮卑風の名前を漢民族風に改めるという漢化政策が行われたことがあったが、北周ではこれに反発して、姓名を再び鮮卑風に改め、漢人に対しても鮮卑化政策を行った。この時、漢人である楊氏にも普六茹(ふりくじょ)という姓を与えられたとされる。普六茹とはでヤナギのことである。楊堅も、那羅延という鮮卑風の小字を持っていた。ただし、楊氏については「元々は鮮卑の出身で本来の姓が普六茹であり、北魏の漢化政策の際に付けられた姓が楊である」という説もある〔アーサー・F・ライト『隋代史』(法律文化社)P64は、普六茹をモンゴル語で柳の一種(楊)を意味する「ブルスカン」の転じたものとみる。姚薇元『北朝胡姓考(修訂本)』(中華書局、2007年)P72-73は、楊氏(普六茹氏)は雁門茹氏、つまりは茹茹(蠕蠕、柔然)の後裔とみる。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「隋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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