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隠岐の歴史(おきのれきし)。日本海に浮かぶ隠岐諸島は古代には隠岐国として自立的な地域を形成し、また遠流の国としても知られた。近代には島根県隠岐郡となったが、戦後は過疎化が進んでいる。佐々木家住宅や隠岐郷土館には、隠岐の歴史に関する展示物を見ることができる。 == 先史・古代 == 隠岐島後(どうご)の西郷町(現隠岐の島町)津井と五箇村(同)久見には、打製石器の原料としての黒曜石を産出する。紀元前5000年頃に縄文早期前期の遺跡が西郷町津井の近くに宮尾(みやび)遺跡が〔隠岐郷土館掲示歴史年表〕 、久見の近辺に中村湊(なかむらみなと)遺跡がある。これらに遺跡は石器製作跡と推測されている。 サヌカイトより強力な隠岐の黒曜石は広く山陰地方一帯の縄文遺跡に分布し、東は能登半島、西は朝鮮半島にまで及ぶ。弥生時代後期に水稲栽培が島に入り、島後南部の八尾川下流東岸に月無遺跡が出現する。隠岐には約200基の古墳が分布、八尾川下流に隠岐最大の前方後円墳である平神社古墳(へいじんじゃ、全長47メートル、長さ約8メートルの横穴式石室)がある。 大化の改新以前には億伎国造が設置され、玉若酢命神社宮司家である億岐家が国造家であったと考えられている。646年(大化2年)隠岐駅鈴2個及び隠岐国倉印が西郷町の玉若酢命神社におかれた〔隠岐郷土館掲示歴史年表〕 。隠岐国設置の年代は不明だが、大化改新後全国に国郡が置かれた時から存在したと考えられる。また、当時の木簡には「隠伎国」と記しているものもあり、設置当初にはこの名称が使われていた可能性もある。 隠岐国府は弥生時代から諸島最大の中心地であった島後の八尾川下流に置かれたが、具体的な所在地については下西の台地にあてる甲ノ原説と八尾平野に当てる説がある。国分寺、国分尼寺についても所在地は必ずしも確定的ではない。古代の隠岐国は山陰道7国のうち下国で、都からの行程は上り35日、下り18日と定められていた。億岐家宝物館には国の重要文化財に指定されている駅鈴が展示されている。 日本海の孤島隠岐は古代から渤海や新羅との交渉も記録されている。763年には渤海から帰国する日本使節・平群虫麻呂の一行が日本海で遭難して隠岐に漂着し、825年には渤海国使高承祖ら103人、861年には渤海国使李居正ら105人が隠岐国に来着している。日本と新羅との関係が緊張すると隠岐国にも影響があり、869年には隠岐に弩師(弓の軍事教官)が置かれ、870年には出雲、石見、隠岐に新羅に対する警備を固めるよう命令が出された。888年には新羅国人35人が隠岐に漂着、943年には新羅船7隻が寄着するなど現実に新羅との交渉が生じた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「隠岐の歴史」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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