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集煙装置 : ミニ英和和英辞書
集煙装置[しゅうえんそうち]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しゅう]
 【名詞】 1. collection 
: [けむり]
 【名詞】 1. smoke 2. fumes 
装置 : [そうち]
  1. (n,vs) equipment 2. installation 3. apparatus 

集煙装置 : ウィキペディア日本語版
集煙装置[しゅうえんそうち]

集煙装置(しゅうえんそうち)は、蒸気機関車煙突に取り付けて煙の流れを誘導する部品である。上部に蓋があり、トンネルなどを通過する際にこの蓋を閉じることで煙の流れを変え、煙が車体にまとわりついたり運転室などに入り込むのを防ぐ役割を果たす。
長年にわたって、連続急勾配と多数のトンネルを擁する北陸本線の難所を担当し、煤煙に悩まされ続けていた敦賀機関区で、1951年に当時同区区長であった増田栄によって考案された。
その後、同様の悩みを抱える各線区の担当工場で同種の装置が製作され、主にトンネルの多い勾配区間を抱え条件の厳しい山岳線を中心に採用された。
== 開発経緯 ==
集煙装置開発の発端となった敦賀機関区は、北陸本線の最難所として知られていた木ノ本 - 今庄間の中間に位置し、貨客双方の列車を担当する、北陸本線の要衝の一つであった。
敦賀機関区所属機が列車牽引を担当する区間のうち、木ノ本 - 敦賀間は小断面かつ全長1,352mの柳ヶ瀬トンネルの前後に最大25パーミルの急勾配かつ急曲線が連続するという過酷な線形であり、また敦賀 - 今庄間も14kmに渡って25パーミルの連続急勾配と11ものトンネルが連続するという、こちらも非常に厳しい軌道条件であった。
それゆえ、この区間では北陸地方の大動脈である北陸本線〔首都圏と北陸地方を結ぶ信越本線には碓氷峠という輸送上の隘路が存在し、貨客ともに十分な輸送力が確保できなかったため、北陸地方と近畿圏を結ぶ鉄道としての北陸本線の果たす役割は非常に大きなものがあった。〕の輸送力を確保するため、早い時期から補助機関車の連結による牽引定数の増強策が講じられており、戦前には強力な9900形→D50形の集中配置を行うなど、機関車としての再粘着性能や牽引力を特に重視した、文字通り機関車の極限性能を引きずり出すような過酷な運用が実施されていた。
だが、大型のD50形の投入〔D50形は1933年の時点でD50 14・15・22 - 24・35・50・52・54・63 - 65・180・181・202 - 204・206 - 208・245 - 251・355と28両が配置されており、敦賀機関区の、つまり北陸本線の主力機であったことが判る。〕は輸送力強化に貢献した一方で、明治期以来の小断面トンネルが多数存在するこれらの区間での運用に深刻な問題を投げかけることともなった。
D50形の就役開始から間もない1928年、これらの区間のトンネル内で列車が空転してトンネル内に立ち往生した際に、機関車から発生した煤煙が狭いトンネル内に充満、これによって3名の乗務員が窒息死するという事故〔北陸線柳ヶ瀬トンネル窒息事故。なお、事故列車の牽引機はD50 64・206の2両であった。〕が発生したのである。
そこで特に全長が長く問題の深刻な柳ヶ瀬トンネルなどでは1933年以降、列車通過直後にトンネル入り口に遮蔽幕を下ろし、煤煙の逆流を物理的に阻止するなどの対策が取られたが、列車運行頻度の制約も手伝って、十分な効果が得られなかった。
この問題については戦前の段階で既に抜本的な解決策となる、路線変更による線増および勾配緩和計画が立案・策定されており、木ノ本 - 敦賀間については1938年11月には延長5,170m深坂トンネルを含む新ルートが着工されていた。だが、戦時中の資材難もあってその工事は一時中断され、戦後再着工されたものの完成は1957年までずれ込んだ。また、敦賀 - 今庄間についても同様に線形改良と線増が計画されたが、こちらは地形的な制約などから総延長13kmにおよぶ北陸トンネルの建設が必要とされ、木ノ本 - 敦賀間の改良工事が完了する1957年にようやく着工されるといった有様であった。
しかも、戦時中の酷使で疲弊したD50形〔敦賀機関区配置のD50形はほとんどが戦後まで転出することなく使用され続けたが、1946年以降富山機関区や金沢機関区への転出が始まり、1955年までにその大半が転出あるいは廃車となっている。〕に代えて新たに導入された、D50形の改良後継機種とされるD51形は動軸重の軽減で入線可能線区が拡大された一方で、前後方向の重量バランスが後方に偏っており〔D50形の動軸軸重が前方から順に14.99t・14.80t・14.79t・14.21tであったのに対し、D51形初期生産グループは順に13.17t・14.30t・14.23t・14.30tと、後方が1t以上重くなっており、前後の重心位置もD50形に比して282mm後方にずれていた。なお、これら初期車はボイラー圧力昇圧の際に動軸重の加算が実施され、重心が若干補正されたが、それでもなお、第1動軸がもっとも軽く第2・第4軸が重いという構造欠陥は解決できなかった。この問題は若干規模は縮小されたものの戦時生産グループまで継承されており、そればかりかD51形の走り装置設計を踏襲したD52形においても同様に動軸重のアンバランスに悩まされることとなった。〕、特に重量級列車の登り勾配での牽き出し時には、牽き出しに伴う後方への重心移動もあいまって、軸重の大きな偏りが発生し、空転が頻発するという北陸本線での運用状況を考慮すると致命的といって良い欠陥を抱えていた〔この問題は「ナメクジ形」として知られる初期生産グループにおいて特に顕著であった。実際にもD51 1・2が1936年に敦賀機関区へ新製配置されたものの、その後わずか2年で稲沢機関区へ転出、以後このタイプは北陸本線の電化までの蒸気機関車運用期間を通じ、敦賀機関区へは一切配置されていない。なお、D51形は俗に標準型と呼ばれる中期生産グループにおいて、給水温め器を煙突前へ移設するなど重心位置の修正を目的とした大がかりな再設計が行われ、この問題の解決が図られたが、当初の設計条件の枠内では重量貨物列車牽き出し時の空転癖を完全には解決できなかった。そのため戦時中以降、軸重増大を許容し死重積載を行うことで、重心の補正と粘着力の改善を図っている。〕。
この新型機を、それも石炭をはじめとする燃料の供給状況が極端に悪化し、山岳線であっても灰分が多く低カロリーの、つまり粗悪な品質の石炭で運用することを強いられた結果、第二次世界大戦後の北陸本線では勾配区間における空転と煤煙の問題が特に深刻化した。
この様な状況下にあって、輸送力維持の社会的要請を背景として所属乗務員に過酷な勤務を強いざるを得なかった敦賀機関区では、乗務員や乗客を苦しめる煙害について様々な対策を独自に検討、試行錯誤を繰り返していた。
そして、石油系の燃料事情が好転し始めた1951年にようやく実用化にこぎ着けたのが、ボイラーの蒸気ドーム後方に重油タンクを搭載、重油を石炭とともに燃焼させることで発熱量を増大させ、勾配区間における機関助士の投炭作業軽減と煤煙発生量の減少を図る重油併燃装置と、煙突部に装着しトンネル区間に限り煙突からの煙を後方へ排出させることで、車体側面への煙の降下を抑止する集煙装置の2つの装置〔これらはいずれも動軸の荷重を増大させるボイラ上に装置を搭載する形で設計されている。〕であった。
これらはまず敦賀機関区のD51 322に補助除煙板〔通常の除煙板と集煙装置の間を埋めてボイラの煙室部分周辺に風洞を形成、集煙装置へ気流を誘導し排気を促進させる意図で設置された。〕とともに装備されて試験が開始され、問題となった木ノ本 - 今庄間で絶大な効果を発揮した。
この実験結果を反映し、特に不要と判断された補助除煙板を除く2つの装置は1952年以降敦賀機関区のみならず北陸本線に配置される50両以上のD51形の標準装備となり、更には同様の問題に悩む全国各地の山岳線区に広く普及するに至った〔増田によるこの装置の考案に対し、国鉄本社は下山賞第1回授賞としてその功に報いている。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「集煙装置」の詳細全文を読む




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