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鈴木 孫一(すずき まごいち、天文3年(1534年)? - 天正17年5月2日(1589年6月14日)?)は、雑賀衆、雑賀党鈴木氏の棟梁や有力者が代々継承する名前。雑賀孫一という名でも知られる。 == 経歴 == 石山合戦において雑賀衆を率いて石山本願寺へ入り、織田信長の軍勢を苦しめた。その後、関ヶ原の戦い(伏見城の戦い)では西軍本隊に属して、鳥居元忠を討ち取る活躍を見せる〔「常山紀談」には「雑賀孫市重次」の名が記してあるため、重秀かどうかは不明。〕。戦後、浪人を経て水戸藩に仕官した。 正体について不明な部分も多く、鈴木重意(佐大夫)を指すとする説や、重意の息子、鈴木重兼(平井孫一という別名あり)や鈴木重秀、鈴木重朝(関ヶ原の戦い・水戸藩への仕官などの経歴はこの人物と重なる)を指すとする説などがある。しかし、「孫一」が活躍した年月に開きがあり、鈴木氏の当主は代々「孫一」を名乗っていたという資料もあることから、複数の人間の伝記が混在した可能性が高い。 なお、「雑賀孫市」という呼称を公的に用いたのは鈴木重次(重朝の次男)である。最初は父と同じく「鈴木孫三郎」と名乗っていたが後に改名、この名が代々子孫に受け継がれることとなった〔鈴木眞哉『戦国鉄砲・傭兵隊 天下人に逆らった紀州雑賀衆』平凡社新書2004年、pp.165-6〕。 また、重朝よりも前の世代の「鈴木孫一重秀」は「サイカノ孫一」(『言継卿記』)、「さいかの孫市」(「真鍋真入斎書付」)として史料に出てくることもあるが、これは「尾張の信長」等の類例の他称と考えられ、本人の自著でも書状の宛所でも「雑賀孫市」はない。更に言えば、彼の戦友の佐武伊賀守の覚書や信長・顕如・頼廉の書状など、彼と関係の深かった人間による表記は「鈴木孫一」である〔鈴木同著、pp.130-1〕。 和歌山県和歌山市平井の蓮乗寺内に孫一の墓と伝わるものがあり、法名は「釋法誓」(墓碑には「天正17年(1589年)5月2日」とある)〔「雑賀住平井孫市郎藤原義兼」と記されている。しかし、雑賀鈴木氏は穂積姓を称しているので藤原姓を名乗るこの人物とは別人である可能性も高い。〕。三重県熊野市には孫一終焉の地として供養塔がある。こちらの法名は「釋広徳」。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鈴木孫一」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Suzuki Magoichi 」があります。 スポンサード リンク
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