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難波田城(なんばたじょう)は、埼玉県富士見市南畑にあった日本の城。埼玉県旧跡。難波田城公園として整備されている。 == 概要 == 富士見市東部の荒川と新河岸川の間の自然堤防上にある、平安時代末期に成立した武士団「武蔵七党」のひとつである難波田氏の居城である。鎌倉時代に村山党金子氏の金子家範の子、高範が当地を与えられ地名を苗字として館を構えたのが始まりと言われている。『新編武蔵風土記稿』には築城から廃城に至るまでだけでなく具体的に城郭の構造にも触れられており、「小田原編年録」の文化9年(1812年)の古図にも描かれている。河越夜戦で難波田氏の主家扇谷上杉氏の敗戦により難波田氏が没落すると上田朝直一族の上田周防守左近の知行地となり、支城として縄張りを広げ城郭を改築していったとされる。戦国時代に小田原の北条氏が作成した『小田原衆所領役帳』にも小机衆の上田左近が難波田の領主であったことが記されている。しかし、永禄年間初頭には北条氏の家臣清水政勝〔清水康英の次男で太郎左衛門・正花と号した。〕が河越城衆として難波田城を攻撃したことを晩年に作成した覚書(「清水正花武功覚書」)に記しており、難波田周辺に所領を持っていた太田資正が北条氏と争った時期に難波田城を支配していたと考えられている〔太田資正は難波田氏の娘婿、その長男で後に北条方についた氏資は同氏の外孫にあたる。『小田原衆所領役帳』には資正が古尾谷(現在の川越市古谷上)を、氏資が大窪(現在の富士見市東大久保付近)・福岡(現在のふじみ野市福岡)を知行しており、難波田氏の没落後にその所領の一部が太田氏に移ったことが確認できる。〕。その後、大田資正が岩付城を追われたことで難波田城も北条方に戻っている。小田原征伐の武州松山城落城と共に廃城となった。 現在城跡は市の発掘調査後に「難波田城公園」として整備されている。市教育委員会の発掘調査によると古図とほぼ同様に三重の堀と本郭を中心に郭が同心円状に配置され、建物跡や倉庫跡が発掘された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「難波田城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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