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雨宮 敬作(あまみや けいさく、明治12年(1879年)11月5日 - 昭和39年(1964年)7月21日)は、日本の教育者。山梨英和女学校における初の日本人校長。 ==生涯== 山梨県東山梨郡日下部村七日市場(現在の山梨市)に、父「景通」、母「じつ」の長男として生まれる。明治32年(1899年)に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を卒業後、同年4月に東京専門学校歴英科(現在の早稲田大学文学部)に入学し、明治36年(1903年)3月に同校を卒業、同年4月から静岡県の榛原郡立榛原中学校(現在の静岡県立榛原高等学校)に2年間勤務した後、明治38年(1905年)4月からカナダ・メソジスト教会のミッションスクールである山梨英和女学校(現在の山梨英和学院)の教諭として勤務。また、昭和4年(1929年)9月3日に日下部村長に就任し、昭和7年(1932年)12月1日の同村の町制施行に伴い初代の日下部町長となり昭和8年(1933年)9月2日まで在任した。 山梨英和女学校は明治22年の創立以来、カナダ合同教会の補助を受け同教会のミッショナリーが歴代校長を承継していたが、昭和14年5月に第12代校長のグリンバンクが退任し第13代校長に雨宮敬作が日本人初の校長〔外国勢力の排除とキリスト教の弾圧を意図する政府が学校経営権を日本人側へ譲渡するよう求めてきたことから、全国のキリスト教主義学校は一斉に財団法人設立の検討を始めた。山梨英和においても昭和7年に「山梨英和女学校委員会」(宣教師と日本人からなる学校運営機関)が財団法人設立の検討に入り、財団法人を設立し日本人側が自力で経営する場合、経営費を満たすためには従来の二倍の収入が必要であること。また、校舎等の施設整備の臨時費を見込むために2万円の基金が必要であるとのことから、昭和14年の学校創立50周年の記念事業として同窓会が基金の半分にあたる1万円を集めることとなった。昭和14年3月8日に文部省から「財団法人 山梨英和女学校」が認可された。〕に就任〔山梨英和と同時期に静岡英和及び東洋英和の校長も日本人に代わっている。〕した。 その後、昭和28年(1953年)10月1日に第14代校長に内藤正隆が就任すると、雨宮は理事長となり昭和38年(1963年)3月31日まで務めている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「雨宮敬作」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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