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雨宮 敬次郎(あめのみや けいじろう〔『鉄道』(p98)〕、あめみや けいじろう、弘化3年9月5日(1846年10月24日) - 1911年(明治44年)1月20日)は日本の実業家・投資家。「天下の雨敬」「投機界の魔王」と呼ばれた。 結束して商売にあたった甲州商人、いわゆる「甲州財閥」と呼ばれる集団の一人である。 ==概要== 甲斐国山梨郡牛奥村(現・甲州市塩山牛奥)に生まれる。自伝である雨宮家は長百姓の家で、次男。『過去六十年事跡』によれば、少年時代から季節商いなどに従事し、成年になるまでに一財産を築いたという〔斎藤(2005)、p.263〕。1870年(明治3年)から1872年(明治5年)頃に神奈川県横浜(横浜市)へ転居し、生糸・洋銀・蚕種などの相場で浮沈を繰り返す〔斎藤(2005)、p.263〕。1876年(明治9年)11月から1877年(明治10年)6月にかけてアメリカ、ヨーロッパを外遊し、発展段階にある近代国家が投資すべき産業は、鉄道、製鉄、水道等の社会基盤の分野だと見極めたという〔斎藤(2005)、p.263〕。 1879年(明治12年)に東京府深川(当時の南葛飾郡八郎衛門新田。現在の東京都江東区扇橋)で興した蒸気力による製粉工場が成功し、本格的に実業界へ進出する〔斎藤(2005)、p.263〕。 1883年(明治16年)には、農業と工業を連携させるアメリカでの実見をもとに軽井沢の開発事業を行う〔斎藤(2005)、p.263〕。この時の開墾地は現在でも長野県北佐久郡軽井沢町に「雨宮新田」という地名として残っている〔斎藤(2005)、p.263〕。 1884年(明治17年)に相場取引を止め東京に移住。この頃、製粉工場は発展し、1886年(明治19年)に東京蔵前の官営製粉所の払い下げを受け、翌1887年(明治20年)には主に軍用小麦粉製造を目的とする有限責任日本製粉会社へと改称した〔斎藤(2005)、p.263〕。この会社は1896年(明治29年)9月に日本製粉株式会社となり、現在は日本の代表的な製粉会社となっている〔斎藤(2005)、p.263〕。 1888年(明治21年)には、新宿 - 八王子間を結び、中央本線の前身となる甲武鉄道への投機で大きな利益を出し、会社内部の対立により株価が低迷するとこれを買い占め、同社の取締役にも就任した〔斎藤(2005)、pp.263 - 264〕。雨宮は甲武鉄道を西へ伸ばし八王子 - 甲府間を結ぶ「山梨鉄道案」を構想し、「甲信鉄道案」を構想していた若尾一平と対立する〔斎藤(2005)、p.264〕。 1891年(明治24年)には川越鉄道(現在の西武国分寺線)の取締役となる。同年、第1回藍綬褒章を受章。1892年(明治25年)に日本鋳鉄会社を興し、当時の東京市に水道用鉄管を納品した。しかし、1894年(明治27年)には納期遅延問題を生じ、敬次郎も刑事告訴されるに至った。(淀橋浄水場の日本鋳鉄疑獄の項を参照) 1893年(明治26年)に北海道炭礦鉄道の取締役に就任、大師電気鉄道の発起人になる〔斎藤(2005)、p.264〕。1894年(明治27年)に豆相人車鉄道を敷設、岩手県の仙人鉄山(現在の北上市和賀町)を開発〔斎藤(2005)、p.264〕。 1903年(明治36年)に東京商品取引所(現在の東京工業品取引所)の理事長になる。同年東京市街鉄道の会長に就任し、電力事業にも進出する〔斎藤(2005)、p.264〕。同年には若尾逸平が東京電灯株式会社買い占めを行うが、雨宮はこれには参加していない〔斎藤(2005)、p.264〕。1905年(明治38年)に江ノ島電鉄社長に就任。1904年(明治37年)に桂川電力を興す。1908年(明治41年)に大日本軌道を設立。広浜鉄道等を敷設。その他、海運・石油・貿易など様々な事業において活躍。 1911年(明治44年)に64歳で永眠した〔雨宮敬次郎没す 明治44年1月22日東京朝日新聞『新聞集成明治編年史. 第十四卷』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。婿養子に事業を引き継いだ雨宮亘がいる。歌人の雨宮雅子、華道家池田佳子(佳甫)は敬次郎の玄孫にあたる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「雨宮敬次郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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