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雪村(せっそん、永正元年(1504年)? - 天正17年(1589年)頃)は、室町時代後期・戦国時代の水墨画家、僧侶。雪村周継とも称す。 == 略歴 == 常陸国部垂(茨城県常陸大宮市)に佐竹氏の一族の長男として生まれる。近くの下村田には雪村が筆を洗ったと伝えられる池がある。本来なら長男として家を継ぐはずだが、雪村の父は他の妻の子を跡取りとしたため(『本朝画史』)、幼くして夢窓疎石を開山とする正宗寺に入って修行する。雪村周継の「周」の文字は夢窓派の通字で、雪村も同系統の僧の下で禅僧の修行を積んだと考えられる。同寺は佐竹氏の菩提寺で絵画をはじめとした多くの寺宝を所蔵し、これらの作品は雪村の画風にも影響を与えたという。 50歳半ば頃、関東各地を放浪する。天文15年(1546年)会津で蘆名盛氏に絵画の鑑賞法を授け(『丹青若木集』)、天文19年(1550年)には小田原や鎌倉を訪れ、多くの名品に接し画僧達と交流したらしい。60歳半ば以降は奥州を中心に活動、最晩年は田村氏の庇護のもと現在の福島県の郡山にある庵に移り住み、そこで没したとされる。その生涯には不明な点が多く、生没年もはっきりしないが、記録によれば少なくとも82歳までは絵を描いていたことがわかっている。 名前から分かるように、雪村自身、雪舟を強く意識し尊敬していたようだが、画風に影響を受けなかった。関東の水墨画のなかでも極めて独自性が高い画風を確立した。後の尾形光琳は雪村を好んで、模写を幾つも試みており、雪村が使っていたといわれる石印をどこからか入手し、小西家伝来史料の中に現存する。更に光琳の代表作「紅白梅図屏風」に、雪村筆「あくび布袋・紅梅・白梅」(三幅対、茨城県立歴史館蔵)の影響があるとする意見もある。谷文晁派の絵師佐竹永海は、雪村の末裔と自称している。 明治時代以降は評価が低い時期もあり、作品は海外へ流出したが、1974年に東京国立博物館で展覧会が催されるなど近年は再評価の機運が高まり、様々な画集で紹介され日本美術史上での価値が確立した。その作品は150以上から200点近くが現存している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「雪村」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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