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秋田街道(あきたかいどう)は、日本に複数ある街道名。 * 生保内・雫石街道―国見峠越 盛岡藩の盛岡城下(岩手県盛岡市)から国見峠を越えて久保田藩(秋田藩)領の生保内に至る奥羽山脈越えの街道。以下で述べる。 * 雫石街道―国見峠越―生保内(角館)街道 盛岡城下から国見峠を越えて久保田藩領の角館に至る奥羽山脈越えの街道。 * 羽州街道の久保田藩領内の別称(秋田道、佐竹道)。 * 国道46号(岩手県盛岡市 - 秋田県秋田市)の別称。 ---- 秋田街道(あきたかいどう)は、盛岡城下(岩手県盛岡市)から国見峠を越えて久保田藩(秋田藩)領の生保内に至る奥羽山脈越えの街道〔「角川日本地名大辞典 5 秋田県」p.58『秋田街道』。〕。現在の国道46号に相当する。 == 概要 == 古代より主に戦略の道として往来が盛んで、南部氏の出羽国進出、戸沢氏の滴石(雫石)から角館への移動など、国見峠越えが確かな道として使われてきた記録がある〔「東北の街道 道の文化史いまむかし」pp.160-163。〕。 江戸時代、盛岡城が盛岡藩南部氏の居城となって以来、盛岡と秋田を結ぶ最短の道として利用された〔「岩手県文化財調査報告書第四十五集 岩手県『歴史の道』調査報告 秋田街道」p.7。〕。西廻り航路で土崎湊(秋田湊)に陸揚げされた物資の輸送路として整備され、宝暦年間に野辺地湊が開港し奥州街道を通じた輸送が行われるようになっても、盛岡の近江商人は土崎湊から陸送した方が距離も近いとして秋田街道を利用し続けた〔。文化年代(1804 - 18)の『秋田藩経済秘録』には、土崎で陸揚げした西国の塩や銀・木綿・古手・綿類・茶・小豆・すげ笠・越中富山の売薬などが盛岡に運ばれ、盛岡からは大量の塩干魚・海藻類が秋田へ運ばれたとある〔「秋田県文化財調査報告書第一四三集 歴史の道調査報告X 生保内街道」pp.11-12。〕。享保年代(1716 - 36)の『雫石記録』には、一日に千駄の物資が交流したとある〔。また、幕府・諸藩の馬買役人や諸国巡見使が仙北郡(秋田県)から雫石経由で盛岡に入る道としても使われた〔。 盛岡藩では、盛岡を出る時は「雫石街道」と呼び(盛岡砂子)、雫石では「秋田往来」と呼んでいた〔。また、久保田藩では生保内街道、南部街道〔あきた(秋田県広報誌)通巻121号、1972年(昭和47年)6月1日発行 〕など、行き先や目的によってさまざまな呼称が用いられていた。雫石に通じる道は、盛岡築城以前は篠木坂峠や大沢坂峠、鬼古里坂峠などいずれも七ツ森の北側を通るものであったが、江戸時代になって、大釜を経由して七ツ森の南を通る街道が整備された〔岩手県滝沢村 滝沢村の指定文化財~岩手県指定史跡 雫石街道 日向一里塚 〕。 1641年(寛永18年)頃に大改修が行われ、一里塚を造り、松の並木を植えつけている〔岩手県滝沢村 農民生活遍遷の滝沢村誌 〕。 戊辰戦争時には盛岡藩と久保田藩の攻防において、国見峠近辺も戦場となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「秋田街道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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