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雲晴寺(うんせいじ)は、兵庫県明石市にある曹洞宗の寺院。山号は月江山。本尊は釈迦牟尼仏。 ==歴史== この地にあった寺が「雲晴寺」と名付けられる以前の名称は不明であるが、1613年(慶長18年)に堂がわら葺きから瓦葺きに葺き替えられたと伝承されている。 1639年 (寛永16年)、明石藩主大久保忠職とその姉桃源院(東丸様、元安房館山藩主里見忠義正室)は、不遇の死を遂げた忠義の菩提を弔う為、ここにあった寺院の伽藍を整備し寺領を増やして供養を行い、里見忠義の法名「雲晴院殿心窓賢涼大居士」からとって雲晴寺と名が改められた。これに際し、忠職の旧領地であった美濃加納 (岐阜県)より能山侃藝大和尚を招いて開山に据えた。開基は牧野家とされている。 天和2年(1682年)に越前大野藩から明石に入封した松平直明は、嫡母(父松平直良の正室)である清光院(豊姫、本多成重の娘)の位牌を雲晴寺に納めて永代供養を願い、清光院の実家である本多家の「丸に立ち葵」の家紋を与え雲晴寺の寺紋となった。 本堂裏には戦前まで宮本武蔵作と伝えられる庭があったが、1945年(昭和20年)7月の大空襲によって雲晴寺は山門を残して全焼し、庭も戦後復興の過程で埋められた。2003年(平成15年)、本堂建設に伴う発掘調査により庭園の一部が見つかり復元。その後武蔵の孫弟子にあたる柴任三左衛門夫妻の墓石が発見され、武蔵ゆかりの寺院の裏付けが濃くなった。 明石藩家老職を務めた織田家、津田家をはじめ、多くの藩士たちの菩提寺であった。戦前は鐘楼堂、奥の院、茶室、坐禅堂など伽藍が整った広大な寺領を持つ寺院であった。 又、初代内閣総理大臣、伊藤俊輔(伊藤博文)は慶応2年(1866)その当時の住職が長州藩の武士出身だった縁で雲晴寺に滞在、幕末の重大な役目を担っていたと言われている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「雲晴寺」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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