|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 雲 : [くも] cloud ・ 芸 : [げい] 【名詞】 1. art 2. accomplishment 3. performance
雲芸南線(うんげいなんせん〔バスジャパン・ハンドブックシリーズ5『中国ジェイアールバス』p19では雲芸線は「うんきせん」と読んでいる。〕)は、中国ジェイアールバス(中国JRバス)が運行しているバス路線である。 本項では、雲芸南線と直通して陰陽連絡路線の役割を果たしたことがあり、かつて国鉄バス・中国JRバスが運行していた雲芸線(うんげいせん〔)・雲芸線の支線として開設された路線である大田線(おおだせん)についても記述する。 == 概説 == 雲芸線は、1934年8月に出雲今市駅(当時)と備後十日市駅(当時)を結ぶ路線として開業したのが始まりである。 当時鉄道は芸備線が備後庄原駅までしか開通しておらず、木次線も全通していなかった。改正鉄道敷設法にある「広島県福山ヨリ府中、三次、島根県来島ヲ経テ出雲今市ニ至ル鉄道及来島附近ヨリ分岐シテ木次ニ至ル鉄道」という計画線が存在したことから、鉄道線の先行という使命により、バスによる陰陽連絡を実現したものである。この区間を雲芸本線とし、同時に三刀屋と木次を結ぶ里熊線が開業しているほか、1935年9月には、雲芸線と山陰本線を短絡するべく赤名と石見大田駅(当時)を結ぶ大田線が開業している。 戦後の1950年には出雲今市 - 三次間に夜行便「銀嶺号」「わかたか号」の運行が開始され、1954年まで続いた。また、1952年には三刀屋と松江駅を結ぶ松江線が開業している。 一方、雲芸南線は、1952年までこの区間を運行していた広島合同自動車が、経営不振により路線を手放すことになったため、国鉄バスが車両・乗務員ごと譲り受けた上で開業した路線である。当初は出雲今市自動車区が担当していたが、1958年に横川自動車区に移管された。1957年の広島バスセンターの供用開始と同時に雲芸南線も乗り入れることになった。 1964年以降は道路事情が改善されたため、雲芸線・雲芸南線を直通運行する広島 - 出雲市・広島 - 赤名 - 出雲市間に直通特急便が設定され、鉄道線の短絡を主眼とした陰陽連絡路線としての役割を果たすことになった〔バスジャパン・ハンドブック5「中国ジェイアールバス」p24〕。 1970年代後半は雲芸南線にとっては転機の時期となった。1974年10月に広島バスセンターの改修に伴い待機バースが減少したため、安芸線の一部を横川駅まで直通させることになったが、横川駅周辺は広島交通・広島バスの営業エリアであったため、協議の結果2社が中深川まで乗り入れることになった〔バスジャパン・ハンドブック5「中国ジェイアールバス」p26〕。この時期、広島市郊外のベッドタウンとして高陽ニュータウン(高陽団地)が造成され、まず1975年に広島交通がB住区へ乗り入れを開始したのに続き、1976年からA1住区に国鉄バスが乗り入れることになった。その後団地の拡大により路線の調整を行い、1979年からはA1・A2住区を国鉄バスが担当することになった。これは国鉄バスとしては数少ない都市型路線で、鉄道線の培養という使命を持つことになった。 1986年には雲芸線から中国自動車道経由で広島へ乗り入れる高速便が新設されたが、一方で1970年代からは支線区の廃止が相次ぎ、松江と三次を結ぶ直通便の運行も1980年代までに中止されている。1989年には一畑電気鉄道の路線と統合するかたちでみこと号として運行され、増発も行なわれたが、一般路線便は雲芸本線も含めて廃止が進み、雲芸線の一般路線は本線・支線とも2003年3月31日限りで全廃となった。その後はみこと号の運行に雲芸本線の路線免許が活用されるのみとなっている。 他方、陰陽連絡便が経由しなくなった雲芸南線については、1990年代に三次側の区間が廃止されたことで陰陽連絡の使命は消滅、地域路線へと変貌、その後も中国JRバスの代表的な都市型路線となっている〔バスジャパン・ハンドブック5「中国ジェイアールバス」p28〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「雲芸南線」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|