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雲谷 等益(うんこく とうえき、天正19年(1591年) - 寛永21年2月14日(1644年3月22日))は日本の江戸時代初期に活躍した雲谷派の絵師。雲谷等顔の子で、「雪舟四代」を名乗った。 == 略伝 == 雲谷等顔の次男として、広島で生まれたと推測される。10歳の時、毛利家の移封に従い、父に連れられ萩に移る。幼い頃から父から絵を習い、父の障壁画制作にも加わりながら、実地で学びつつ人脈も広げていった。慶長末から元和期には絵師として活動している。1618年(元和4年)父等顔が亡くなり、兄等屋は父より先に亡くなったため、当駅が雲谷派を継ぐ。父等顔の絵が持つ武士出身らしい強い緊張感は継がなかったが、技術的には早くも父を凌ぎ、等顔の画風を整え、全体に明るく均衡のとれた静謐な画風を早くも完成させている。等益の名声は高まり、1626年(寛政3年)法橋を得る。 寛永半ばから「雪舟四代」を名乗り始める。この頃から筆線に厳しさが加わり、画面に父とはまた異なる厳しさや格調が備わるようになる。1637年(寛永14年)老いて目を悪くし、息子の等與・等爾、甥の等的の補助が必要になる。しかし、等益はこの頃までに工房組織を整えており、等益に頼らなくとも一定水準の作品を制作できるようになっていた。全国的に狩野派が席巻する中で、雲谷派が幕末まで代を重ねることが出来たのは、等益の組織化のお陰といえる。1639年(寛永16年)には隠居し家督を等與に譲るが、晩年でも技量は衰えず、全盛期とされる寛永中期とほぼ変わらない完成度の作品を残している。1644年(寛永21年)おそらく萩で没する。享年54。萩に等益の墓はないが、生前に黄梅院に建立した供養塔が残っている。現存する作品は、楷体山水画の屏風絵が大部分を占めが、僅かに残る人物画や金碧障壁画でも十分な力量が感じられる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「雲谷等益」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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