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青ノ里 盛(あおのさと さかり、1935年11月13日-2008年5月16日)は、青森県三戸郡倉石村(現役当時、現在は同郡五戸町)出身で、時津風部屋に所属した大相撲力士である。本名は小笠原 盛(おがさわら さかり)。最高位は西張出関脇(1963年5月場所)。現役時代の体格は182cm、120kg。得意手は右四つ、寄り、上手投げ。 == 来歴・人物 == 果樹農家の家庭に生まれ、幼少期から体格に恵まれていた。 地元の又重中学校を卒業した後は家業に従事していたが、父が大相撲の元幕下力士だった関係で巡業に来た鏡里に見出され、訪ねて来た同郷の鬼竜川から勧誘された。だが、自身は相撲が嫌いであり、逃げ回っていた。 しかし曾祖父が宮相撲の強豪で祖父も大の相撲好きだったので周囲は乗り気であり、ラジオの相撲放送で鳴門海が鏡里に勝ったのを聞いて「あれでも横綱に勝てるんだったら、俺でもできるかな」と言ってしまったので行く気が有ると思われ、連絡を受けて再び鬼竜川が訪ねて来た。 それから間も無く上京し、鏡里らが所属する時津風部屋へ入門する事となった。 1953年3月場所にて、17歳で初土俵。筋力と柔軟性を兼ね揃えていたが正攻法の取り口故に幕下で3年以上足踏みしたため、兄弟子達や実兄から帰郷するよう勧められた事もあったが関取衆に「もう1年やってみろ」と励まされ、奮起して続けている内に大勝ちできるようになった。 その後、1958年7月場所で新十両に昇進。十両は2度の優勝もあって僅か3場所で突破し、1959年1月場所にて新入幕を果たした。以降、59場所連続で幕内の土俵を務めた。 一時は上位でも好成績を残し大関昇進も期待されたが、攻めが遅い所があり小結で勝ち越す事がやっとであった。しかしながら、金星も5つ挙げており(その中のひとつは、大鵬の連勝を30で止めたもの)、地力の高さを見せ長きに渡り幕内上中位で活躍した。 連続59場所務めた幕内から陥落した後は、1場所だけ幕内に復帰したが、再度十両に下がった1969年3月場所を以って現役を引退。 引退後は年寄・二十山を襲名し、時津風部屋付きの親方として後進の指導に当たった。1971年、同郷でもある立田川親方(元横綱・鏡里)の独立に同行し、立田川部屋へ移籍。1988年4月には停年直前の師匠と年寄名跡を交換して、立田川部屋を継承した。 先代(元鏡里)の時代には関取が1人(十両・高道改メ森乃里)しか誕生しなかったが、地道に有望な入門志願者を探し敷島、十文字といった力士を幕内まで昇進させた(退職後、陸奥部屋に移った元弟子の豊桜・琉鵬・白馬も幕内まで出世している)。なお三男・盛幸(もりゆき、1970年1月生まれ)は高校卒業後、立田川部屋に入門したが、十両には昇進できなかった(四股名は「総乃里」、最高位・幕下42枚目)。同部屋は小部屋ではあったが、複数の関取を輩出するなど、部屋経営に尽力した。 立田川部屋は後継者に欠いていたため、2000年11月場所中の立田川親方の停年退職に先立って、同年9月場所後に閉鎖。豊桜や琉鵬など、所属していた力士達は、同じ時津風一門の陸奥部屋(師匠は元大関・霧島)が引き取った。 2008年5月16日、敗血症により逝去。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「青ノ里盛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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