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青山七造 : ミニ英和和英辞書
青山七造[せいざん, あおやま]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あお]
 (n) 1. blue 2. green 3. green light
青山 : [せいざん, あおやま]
 【名詞】 1. (1) blue or green mountain 2. (2) grave 3. burial place 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [しち]
  1. (num) seven 

青山七造 ( リダイレクト:伊丹万作 ) : ウィキペディア日本語版
伊丹万作[いたみ まんさく]

伊丹 万作(いたみ まんさく、1900年1月2日 - 1946年9月21日)は、日本映画監督脚本家俳優エッセイスト挿絵画家。本名は池内 義豊(いけうち よしとよ)。
「日本のルネ・クレール伊丹万作 KINENOTE、2015年2月3日閲覧〕」と呼ばれた知性派の監督で、挿絵画家として活躍後、同窓の伊藤大輔の勧めで映画界に入り〔伊丹万作 日本大百科全書コトバンク、2015年2月3日閲覧〕、片岡千恵蔵プロダクションへ入社。作風は風刺と諧謔、人間味に富み、これまでの立ち回り主体の時代劇とは一線を画す現代的な時代劇〔佐藤2007、p.49〕で稲垣浩とともに新生面を開いた〔これらの時代劇は「髷をつけた現代劇」と呼ばれた〕。その後は闘病生活を余儀なくされるが、シナリオ執筆や映画論、社会批評など著述に専心した〔。主な監督作に『國士無双』『赤西蠣太』、シナリオに『無法松の一生』『手をつなぐ子等』など。長男は映画監督・俳優の伊丹十三、長女は大江健三郎夫人の大江ゆかり、孫は俳優の池内万作池内万平
== 来歴・人物 ==

=== 挿絵画家から映画界へ ===
1900年(明治33年)1月2日愛媛県松山市湊町2丁目24番地に、官吏の父・義行と母・キクヨの長男として生まれる〔冨士田1985、p.245〕〔キネマ旬報1976、p.36〕〔伊丹万作 伊丹十三記念館、2015年2月3日閲覧〕。後に2人の妹が産まれた〔。
1906年(明治39年)、松山第一尋常小学校(現在の松山市立番町小学校)に入学、この秋に神戸新開地の掛小屋で初めて活動写真を見る〔(この時に観た活動写真は、日露戦争の実写であった〔〔伊丹1936〕)。1912年(大正元年)、旧制愛媛県松山中学校(現在の愛媛県立松山東高等学校)に入学。在学中に同窓の中村草田男伊藤大輔重松鶴之助らと回覧雑誌『楽天』を作り〔、雑誌の口絵や挿絵を描いた。
1917年(大正6年)3月、松山中学を卒業後、美術の道を志望するが父の反対と〔家庭の事情で〔父とともに樺太に渡る。父は綿屋を営み、万作は伯父の店を手伝わされた〔米田1985、p.295〕が、父の商売が失敗したため半年後に帰郷〔、叔父の柴山猪虎馬を頼って上京し、彼の務める鉄道院に勤務した〔。その傍ら独学で洋画を学んだ。
1918年(大正7年)、鉄道院を退職し〔〔、2月に少年向け雑誌『少年世界』でに石黒露雄の小説『木枯吹く夜』の挿絵を描いて挿絵画家としてデビューする〔挿絵画家時代の伊丹万作の仕事 、2015年2月3日閲覧〕。同月の誌上には池内都夜坊の名で『ゴリラとピンくん』という漫画も掲載している〔。その後は本名の池内義豊の名で『少年世界』の挿絵を担当し、1919年(大正8年)には水田豊平のペンネームで『中学生』の挿絵も描いている。1920年(大正9年)からは同年刊行の『新青年』『女学生』の2誌も担当し、計4誌で挿絵を描いた。この頃から池内愚美の筆名を使っていた。
同年、映画製作の事業に乗り出した松竹松竹キネマ俳優学校の研究生を募集した。万作は伊藤大輔にこれに応募することを勧め、上京してきた伊藤と本郷区根津須賀町の下宿2階3畳で同居生活を始める〔〔冨士田1985、p.246〕。しかし、翌1921年(大正10年)には大家から即時撤退を要求され、そのうち伊藤も試験をパスして松竹キネマ俳優学校の生徒となり一定の給費を受けるようになったため、谷中真島町の下宿で別々の部屋に暮らした〔。同年5月、補充兵として広島の野砲連隊に3ヶ月間入営した〔。
1922年(大正11年)、演習召集を受けて三週間ほど服役〔し、その後伊藤と青山南町で再び同居生活を始めた〔。この頃2人でしきりに映画を見て歩いており、好きな俳優はフランク・キーナンだったという〔〔伊丹万作・大江健三郎編『伊丹万作エッセイ集』、ちくま学芸文庫、2010年、p.298〕。また、この頃の挿絵の収入は百円内外あったという〔。同年、さらに絵画を勉強するためと、肺病で松山に療養している親友の野田実を見舞うために松山に帰省する〔〔。
1923年(大正12年)、関東大震災後に上京、長崎村初山滋と同居し、後に隣に小さな家を借りて自炊生活をした〔〔〔。1925年(大正14年)、中村草田男、重松鶴之助らと回覧雑誌『朱樂』を作り、絵画の他、随筆・評論なども発表する〔。一方、芸術性を追求するうちに挿絵の仕事は減り、1926年(大正15年)には松山に帰郷して重松、白川晴一と松山市三番町におでん屋「瓢太郎」を開店する〔。始めは繁盛したが、年明け頃から経営は悪化し、1927年(昭和2年)夏に借金を残して閉店した〔〔記念館便り「昭和2年のお正月」 、伊丹十三記念館、2015年2月3日閲覧〕。同年、知人夫妻を描いた油彩画『市河夫妻之像』が岸田劉生の目に留まり、激賞される。この絵は中村草田男によって第1回大調和美術展に搬入され入選したが、画家の道は断念している〔。
同年10月、京都に暮らしていた伊藤大輔に手紙を出して彼の食客となった〔冨士田1985、p.247〕。当時伊藤の食客だった人に香川良介中川藤吉〔『私の活動写真傍観史』では、中川は『下郎』の作者と紹介されている〕がいる〔。伊藤のすすめで映画脚本を書くようになり、『花火』と『伊達主水』〔1928年(昭和3年)に稲垣浩監督が『放浪三昧』の題で映画化した〕を執筆する〔〔〔。11月、奈良谷崎十郎プロダクションが設立されると、香川、中川らとともに同プロに入り、俳優としての日々を過ごした〔〔。奈良には1か月しかいなかったが、その間に書いた脚本が『草鞋』であった。12月、香川の台湾巡業に同行し、俳優として舞台に立った〔〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「伊丹万作」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Mansaku Itami 」があります。




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