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青山博一 : ミニ英和和英辞書
青山博一[あおやま ひろし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あお]
 (n) 1. blue 2. green 3. green light
青山 : [せいざん, あおやま]
 【名詞】 1. (1) blue or green mountain 2. (2) grave 3. burial place 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [ばく, ひろ]
  1. (n,n-suf,vs) doctor 2. Ph.D. 3. exposition 4. fair 5. exhibition 6. commanding esteem 7. winning acclaim 8. gaining 9. receiving 10. command esteem 1 1. win acclaim 12. gain 13. receive
: [いち]
  1. (num) one 

青山博一 : ウィキペディア日本語版
青山博一[あおやま ひろし]

青山 博一(あおやま ひろし、1981年10月25日 - )は、千葉県市原市出身のオートバイレーサー。2003年全日本ロードレース選手権GP250チャンピオンロードレース世界選手権250ccクラスチャンピオン。最高峰MotoGPクラスを4年間走り、現在はHRC(ホンダ・レーシング)のテストライダー。弟は現オートレース選手青山周平
== 経歴 ==
5歳でポケバイに乗り始め、14歳でミニバイクレースを始める。15歳で桶川塾入学。
1998年にロードレースデビューし、筑波選手権参戦。1999年にはハルクプロより全日本ロードレース選手権GP125にデビューし、表彰台2回獲得。2000年よりGP250に転向し、3勝で年間ランキング2位となり、ルーキー・オブ・ザ・イヤー獲得。2002年には2勝で2度目のランキング2位。2003年は全6戦中5回の表彰台と安定したリザルトで、初のタイトルを獲得した。
ホンダ・レーシングスカラシップ第1期生に選ばれた青山は、アルベルト・プーチが率いるテレフォニカ・モビスター・ホンダチームから、ダニ・ペドロサのチームメイトとしてロードレース世界選手権250ccクラスにフル参戦を開始。翌年も同体制で参戦し、ツインリンクもてぎで行われた日本グランプリで同選手権初優勝を遂げた。以降もプーチ宅にほど近いアパートメントを拠点に、プーチのトレーニング指導を受けながらレース活動を行っている。
スカラシップ期間の2年間を終えて、からはKTMワークス・チームに移籍。まで所属するが、KTMの250ccクラスからの撤退に伴い再び移籍を強いられることになり、は高橋裕紀の後継としてチーム・スコットに所属(マシンはホンダ・RS250RW)。前年の不振や、マシン開発が2007年を最後に終了している〔 『最後の王者を目指して』青山博一の挑戦 ~前編~ 〕ということもあって、周囲も、そして青山自身も大きな期待はできない状況であった。
しかし開幕戦カタールGPの予選で、アルバロ・バウティスタと激しいポールポジション争いを繰り広げて予選2位、決勝でも激しい3位争いを繰り広げて4位。続く第2戦日本GPも予選2位、決勝もバウティスタと激しい争いを繰り広げて2位に入る。そして迎えた第3戦スペインGPでは、他メーカーのマシン開発が進むヨーロッパラウンドに突入したことから苦戦が予想され、予選では6位に終わったが、決勝前のサイティングラップでタイヤの異変に気付き、決勝直前にマシンを変える。決勝では4台による50回以上のトップ交代劇があったが、最後にはバウティスタとの一騎打ちとなり、最終ラップの最終コーナーでバウティスタを下して2年振りの優勝を飾るとともに、ポイントリーダーに躍り出た。
その後のフランスイタリアでは、ウエットレースでスペアマシンがない状況だったこともあり8位・6位に終わるが、久しぶりにドライコンディションとなった第6戦カタルニアGPでは途中マシンがスローダウンしたものの2位フィニッシュ、そして第7戦ダッチTTでは残り2ラップの最終シケインでバウティスタと接触するものの、何とかトップでチェッカーを受け2勝目。その後も第10戦イギリスGPで1周もトップを譲らず3勝目を挙げるなどしてポイントリーダーの座をキープし続け、第16戦マレーシアGPを含むシーズン4勝と全レースでシングルリザルトを記録するという好成績を残し、この年を最後に廃止される250ccクラスで年間チャンピオンを獲得した〔青山博一、悲願のタイトル奪取 (Sunday, 08 November 2009) - motogp.com official website 〕〔青山博一、MotoGP 250ccクラスのチャンピオン獲得! (2009年11月8日) - F1-Gate.com 〕。青山は原田哲也()、加藤大治郎()に続き、ロードレース世界選手権250ccクラスのシリーズチャンピオンを獲得した3人目の日本人となった。
は最高峰のMotoGPクラスにステップアップし、チーム「パドック・グランプリ・チーム・マネージメント」に1名体制で所属することになり、マシンはホンダ・RC212Vを使用した。メインスポンサーにはオーストリアのオンラインカジノ会社である「インターウェッテン」が付いた〔Interwetten enters MotoGP with team title sponsorship - racecar.com・2009年11月11日〕。開幕戦カタールGPをステップアップ勢トップとなる10位でフィニッシュし、その後も確実にポイントを獲得していたが、6月21日、第5戦イギリスGPにて、決勝日のウォームアップ走行中にハイサイドで転倒し、背中を強打して脊椎圧迫骨折(第12胸椎)を負い、療養のため第10戦まで一時参戦休止となる。その間は秋吉耕祐アレックス・デ・アンジェリスに代役を任せていたが、第11戦インディアナポリスGPより復帰。その後は目立った転倒もなく出走した全てのレースで完走を果たし、年間ランキング15位でデビューシーズンを終えた。チームとは2年契約を結んでいたが、資金繰りが悪化したためMotoGPクラスからの撤退が決まり、青山はチームを離れることとなった。
グレシーニ・レーシングに移籍。250cc時代からのライバルであるマルコ・シモンチェリをチームメイトに、クラス2年目のシーズンを迎えた。ウェットレースとなった第2戦スペインGPではクラス自己ベストの4位に入賞する活躍を見せるが、ドライ路面ではタイヤに熱を入れてパフォーマンスを発揮させることができないという問題を抱え〔http://www.honda.co.jp/WGP/race2011/rd05/qualify/〕下位でのフィニッシュが続いた。第7戦ダッチTTでは骨折で欠場中のダニ・ペドロサの代役としてレプソル・ホンダからエントリー、最新ワークスマシンを駆る機会を得たが、フリー走行での転倒でまたも胸椎(9番)を骨折してしまった〔http://www.hiro-aoyama.com/blog/2011/07/post_248.html〕。その後も完走率は高いが下位集団でのレースが続き、年間ランキングでは前年から向上して10位を記録したものの、シーズン終了をもってチームを去ることとなった〔http://www.motogp.com/ja/news/2011/aoyama+leaves+gresini+team〕。
シーズン、青山はグランプリを去りスーパーバイク世界選手権に転向。テンケイトレーシングでジョナサン・レイのチームメイトとしてホンダ・CBR1000RRを駆ることになり〔http://www.redbull.jp/cs/Satellite/ja_JP/Article/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E5%8D%9A%E4%B8%80%E9%81%B8%E6%89%8B%E3%81%8C2012%E5%B9%B4%E3%81%8B%E3%82%89-World-Superbike-%E3%81%B8%E5%8F%82%E6%88%A6-021243104871249〕、8位2回が最高位で61.5ポイントを獲得しシーズン18位。MotoGP最終戦バレンシアGPにはケガで欠場中のY・エルナンデスの代役として出場をし、このチームにとって貴重な13位を獲得する。
はMotoGPクラスに2年ぶりに復帰を果たす。アビンティア・ブルセンスよりCRTマシン(FTR+カワサキエンジン)で参戦。シーズン序盤からマシンのトラブルが多く不振が続き、第5戦イタリアGPでは高速コーナーで転倒し、左膝の靭帯を断裂。次戦の第6戦カタルーニャGPではケガの復帰を待たずに出場を試みるが練習走行で転倒し、左手の中指第一関節の靭帯を切断、薬指第一関節を切断してしまい、第6戦カタルーニャGPと第7戦オランダGPは欠場となった。その後は復帰し、出走した全てのレースで完走を果たし、シーズン20位、シーズン最高位は第15戦マレーシアGPの11位となった。
はオープンクラスの有力チームチーム・アスパーへ移籍、エースライダーにニッキー・ヘイデン、青山はセカンドライダーとして参戦した。マシンはホンダの市販マシンRCV1000Rを使用。第3戦アルゼンチンGPでは青山はオープンクラスのトップでゴール、チームメイトのヘイデンは2番手で、青山自身とチーム共にシーズン最高成績のレースとなった。第14戦のアラゴンGPと第16戦のオーストラリアGPの2戦ではシーズン最高位の8位となり、シーズン通算では14位となった。ファクトリーマシンとの性能の差により上位に躍り出ることはなかったが、オープンクラスのランキング3位と安定した成績を残した。
よりHRCのテストライダーとなっているが、MotoGPレーサーのダニ・ペドロサが開幕戦直後に手術を行うことになったため、青山がペドロサの復帰まで代わりに参戦することが決定した〔ペドロサが手術/青山が代役 - motogp.com・2015年4月3日〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「青山博一」の詳細全文を読む




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