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青山 士(あおやま あきら、1878年9月23日 - 1963年3月21日)は、静岡県磐田市生まれの土木技術者。パナマ運河建設に携わった唯一の日本人であり、荒川放水路の建設、信濃川大河津分水路の改修工事を指揮した。 == 生涯 == 静岡県豊田郡中泉村(現在の磐田市)において、青山徹・ふじ夫妻の三男として生まれる。尋常小学校を卒業後に上京し、東京府尋常中学校(現在の日比谷高校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学工科大学土木工学科(現在の東京大学工学部土木工学科)に進学した〔。一高在学時に内村鑑三の講演を聞き、影響を受けて門下生となった〔。土木技術者を志したのも内村の影響で(内村は講演「後世への最大遺物」で、子孫のためになる仕事の例として土木事業を挙げている)、東京帝大に進んだのも広井勇(内村鑑三と札幌農学校の同級生で親友であった)が主任教授を務めていたことから内村に勧められたものである〔。青山は広井の講義を聴き、パナマ運河への思いを募らせた〔。 1903年7月に大学を卒業した青山は広井勇の紹介状を携え単身渡米〔〔〔。広井の紹介状の宛先はコロンビア大学教授W. H. バー(William Hubert Burr)で〔〔藤井肇男著『土木人物事典』(アテネ書房、2004年)。から重引用〕、バーは米国政府のパナマ運河工事委員会(Isthmian Canal Commission)の委員でもあった〔〔。パナマ運河の工事再開を待ちながら、バーの紹介で鉄道会社に測量員として勤務し、測量の腕を磨きながら英語で仕事をする環境に適応〔。1904年6月よりパナマ運河工事委員会に採用され、パナマ運河開削工事に従事する〔〔。青山は、パナマ運河建設に携わった唯一の日本人である〔〔。採用当初は末端の測量員であり〔〔、2年間はジャングルに分け入りマラリアにも罹患する過酷な測量を経験している〔。勤勉さと手腕を高く評価された青山は、測量技師、設計技師と昇進〔、技術者としてガトゥン閘門の重要部分(側壁〔など〔)設計を担当〔〔、ガトゥン工区の副技師長に昇進した〔。しかし、パナマ運河の完成を見ることなく、1911年11月に帰国の途に就く〔(休暇として帰国し〔、帰国後に辞表を提出した〔)。これには日露戦争後にアメリカにおいて日本への警戒や外国人排斥運動が高まった影響もあり〔〔、新聞にはスパイではないかとの疑いも書かれたという〔。 1912年1月、日本に帰国〔〔。1912年2月、内務省に内務技師(高等官六等)として入省〔。内務省土木局東京土木出張所(現在の国土交通省関東地方整備局)において、19年にわたり荒川放水路(現在の荒川下流域)の建設工事を指揮した〔。また、鬼怒川の改修工事にもあたっている〔。 1927年6月24日、信濃川大河津分水路工事において自在堰が陥没する事故が発生すると〔〔、青山はその修復と工事完成の任を担い、1927年12月に内務省土木局新潟土木出張所長(現在の国土交通省北陸地方整備局長に相当する)に就任した(1934年まで在任)〔。青山は分水路の改修工事の最高責任者となり(青山の下で現場責任者を務めたのは宮本武之輔であった〔)、1931年に大河津分水路を完成させた〔〔。 1934年5月、第5代内務技監に就任、1936年11月まで2年間務めた〔〔。内務技監当時、物部長穂の河水統制計画案を採用、河川開発の一元化へ行政の転換を方向付け、以後多目的ダムによる河川開発が始まることになる(電力行政にもたらした影響は日本発送電を参照)。しかし、土木局における技官と事務官の処遇格差をめぐるかねてからの対立が紛争に発展し、青山はその責任をとる形で辞職した〔(キャリアの項目に言及がある)。なお、1935年には土木学会会長を務めている〔。 内務技監退任後は、東京市水道水源調査委員会、兵庫県水害復興専門委員会の委員や、満州国交通部嘱託として〔、土木行政・治水事業などの指導にあたった〔。 太平洋戦争中には、パナマ運河の爆破攻撃を立案していた海軍から、パナマ運河についての情報提供を求められた。「私は造ることは知っているが壊し方は知らない」と答え、土木技術者の良心に基づきこれを拒否したと伝えられている〔〔〔。あるいは「せっかく皆で苦労して造ったのだから、そっくりそのまま貰うことを考えたらどうじゃ」と返して破壊への非協力を示したともいう〔。1945年6月、長野県に疎開〔、戦後は磐田の実家に移る〔。隠居をしたものの生活には困窮したとされ、県などの土木事業の技術顧問として活動を続け〔、1949年には建設省荒川計画高水量検討会座長を務めた〔。 1963年、磐田市の自宅において、老衰のため死去した。84歳〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「青山士」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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