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青山 幸哉(あおやま ゆきしげ)は、美濃八幡藩の第6代藩主。郡上藩青山家10代。 == 生涯 == 文化12年(1815年)6月27日、青山宗家の丹波篠山藩の第4代藩主・青山忠裕の7男として生まれる。分家の八幡藩の第5代藩主・青山幸礼に嗣子がなかったためその養子となり、天保9年(1838年)の幸礼の死去により家督を継いだ。 天保11年(1840年)に奏者番に任じられ、天保14年(1843年)に寺社奉行を兼任する。しかし弘化3年(1846年)、藩財政悪化を理由に辞職した。このため、財政再建を主とした藩政改革を行なう。借財整理、生糸の専売、倹約などを中心とした八幡藩の安政・文久の改革である。これらは多少は効果があったものの、万延元年(1860年)7月に寺社奉行と奏者番を再任する形で兼任となったため、またも出費が重なり、さらに文久元年(1861年)12月に寺社奉行を、文久2年(1862年)閏8月に奏者番制度が廃止されて辞任した後は、文久3年(1863年)4月に神奈川警備、5月に摂津警備を命じられてさらに出費が続くことになる。また、藩内でも改革に反対する領民による万延の郡上騒動が起こって、改革は中止に追い込まれた。 このような中で、失意のうちに文久3年(1863年)7月16日に死去した。享年49。跡を長男の幸宜が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「青山幸哉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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