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青山 忠俊(あおやま ただとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。徳川幕府譜代大名。常陸江戸崎藩第2代藩主、武蔵岩槻藩主、上総大多喜藩主。青山家宗家2代。 == 経歴 == 天正6年(1578年)、遠江国浜松(静岡県浜松市)に生まれる。小田原征伐で初陣を飾り、兄・忠次の早世により嫡子となる。父・忠成が徳川家康に仕えていたため、最初は家康に仕え、後に幕府2代将軍・徳川秀忠に仕える。慶長5年(1600年)より伯耆守を称す。慶長8年(1603年)に5,000石を与えられる。慶長12年(1607年)に土井利勝、酒井忠世とともに徳川家光の傅役をつとめる。慶長15年(1610年)、5,000石を加増され1万石を領する独立した大名となる。慶長18年(1613年)には父・忠成の死により、常陸江戸崎藩第2代藩主となった。元和元年(1615年)には本丸老職となる。元和6年(1620年)5万5,000石をもって岩槻城主となる。 しかし、忠俊はしばしば家光に諫言を繰り返したため、元和9年(1623年)10月19日には、老中を免職の上、上総大多喜藩(2万石)に減転封され、その後寛永2年(1625年)に除封され、下総国網戸・相模国溝郷・遠江国小林を経て、相模国今泉で蟄居する。秀忠の死後に再出仕の要請があったが断っている。 寛永20年(1643年)に死去、享年66。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「青山忠俊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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