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青山栄次郎 : ミニ英和和英辞書
青山栄次郎[せいざん, あおやま]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あお]
 (n) 1. blue 2. green 3. green light
青山 : [せいざん, あおやま]
 【名詞】 1. (1) blue or green mountain 2. (2) grave 3. burial place 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [さかえ, はえ]
 【名詞】 1. glory 2. prosperity
: [つぎ]
  1. (n,adj-no) (1) next 2. following 3. subsequent 4. (2) stage 5. station 

青山栄次郎 ( リダイレクト:リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー ) : ウィキペディア日本語版
リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー[じろう]

リヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギー(、1894年11月16日 - 1972年7月27日)は、クーデンホーフ家カレルギー家が連携した伯爵一族クーデンホーフ=カレルギー家の人物で、東京生まれのオーストリアの国際的政治活動家汎ヨーロッパ連合主宰者。日本人名の幼名を持ち、その名は、青山 栄次郎(あおやま えいじろう)。
汎ヨーロッパ主義(パン・ヨーロッパ主義)を提唱し、それは後世の欧州連合構想の先駆けとなった。そのため欧州連合の父の一人に数えられる。哲学の博士号があり、地政学に造詣が深く、ジャーナリストとしての顔も持つ。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの「歓喜の歌」がヨーロッパのシンボル欧州の歌」に採択されたのはクーデンホーフ=カレルギーの提案による〔〔クーデンホーフ家にはベートーヴェンと同名のルートヴィヒ(Ludwig)が世代をまたぎ存在する(Georg Ludwig Coudenhove、Franz Ludwig Coudenhove、Ludwig Titus Coudenhove)。〕。多数の著作を残し、代表作は『パン・ヨーロッパ』(1923年)、『自由と人生』(1937年)など。
== 略歴 ==

父はオーストリア=ハンガリー帝国駐日特命全権大使ハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵、母はハインリヒの大使公邸の使用人をしていた東京牛込出身の日本人青山みつ(クーデンホーフ=カレルギー・光子)。父ハインリヒが在日中に、みつ(旧名)と出会い日本で結婚(みつは日本国籍を喪失し仏教から夫と同じカトリックに改宗した)。クーデンホーフ=カレルギー夫妻の7人の子の次男として1894年東京府に生まれる(彼が生まれた頃、父母の姓はクーデンホーフであり、1903年より父が複合性のクーデンホーフ=カレルギーを名乗った)。一家は1896年に日本を離れ、父親の故郷オーストリア=ハンガリー帝国へ行き(リヒャルトと兄は父母と別の経路で行った〔)、ロンスペルク城で兄弟姉妹とともに育つ。
1908年ウィーンボーディングスクールに入学し、1913年に卒業〔。テレジアヌムに在学中、『道徳の根本としての客観性』を書いた〔。1914年ウィーン大学に入学し哲学近代史を専攻〔。1917年6月28日にウィーン大学哲学科を卒業、同大学で哲学博士号取得〔。『客観性即道徳の基本原則』と題された卒業論文が博士論文として認められた〔。彼は哲学者になりたかった。1914年に始まった第一次世界大戦では兄ハンス(Johannes)と弟ゲオルフ(Gerolf)は徴兵されたが〔、リヒャルトは若干の胸部疾患があったので徴兵を免れた。オーストリア=ハンガリー帝国が第一次大戦に敗北して帝国内諸国が独立すると一家は領地のあるチェコスロバキア共和国の国籍となり、兄で長男のハンスがロンスペルクの領主として領地・領民を治めることになった〔。一家の領地は多くが政府に没収された〔。ウィーン大学在学中〔、大物俳優イダ・ローラン1881年-1951年)と知り合い、駆け落ち同然に同棲を始め、1915年4月に19歳の彼は、34歳のイダと結婚〔、正式な結婚は彼が24歳になってからである〔。イダの連れ子エリカ()はクーデンホーフ=カレルギー家の養女になった〔。
1923年、最初の妻イダの資金で〔汎ヨーロッパ社()を設立し、1924年に発刊した同社の機関誌『』(汎ヨーロッパ)にてジャーナリスト・編集者として働く。クーデンホーフ=カレルギーは1923年の時点において、第一次大戦後の将来的な戦争と、ソ連側・米国側の分断を警告していた。
リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーが主宰し政治活動の拠点としていた汎ヨーロッパ連合(汎ヨーロッパ運動)はナチス・ドイツに弾圧された。1939年の春にフランス共和国の市民権を取得した〔〔。以後終生フランス国籍である〔。1940年にアメリカ合衆国へ亡命し、ニューヨーク大学のセミナー等〔をしながら汎ヨーロッパ運動を継続。1944年にニューヨーク大学教授に認定される〔。米国亡命中には、クーデンホーフ家のかつての主君の末裔オットー・フォン・ハプスブルク公と協調して(クーデンホーフ家の源流はハプスブルク君主国の伯爵である〔)リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー自らを首班とするオーストリア亡命政府を画策し、米国政府・英国政府に働きかけた〔〔。
第二次世界大戦後、1946年ヨーロッパへ帰り、スイス・グシュタートに入った〔。1962年にオーストリア共和国から名誉大銀星勲章(Großes Silbernes Ehrenzeichen mit dem Stern)を受勲した。1967年には生まれて間もなく離れた日本へも帰郷し、勲一等瑞宝章を受勲した〔。
2度の大戦を一緒に生き抜いた妻イダは1951年に死去、イダは生涯に3回結婚し、イダにはリヒャルトが最後の夫である。リヒャルトは『』(1951年、ファイドン出版、ドイツ語)を出版した〔Ida Roland : in memoriam 〕。1952年にアレクサンドラ・フォン・ティーレ=ヴィンクラー伯爵夫人(1896年-1968年)と再婚し、1968年にアレクサンドラが死去後、1969年にメラニー・ベナツキー=ホフマン(1909年-1983年)と再婚した〔。クーデンホーフ=カレルギーに実の子はいなかったらしく、知られている義理の子は、イダの娘エリカと、2番目の妻アレクサンドラの息子アレクサンダー()である。クーデンホーフ=カレルギーの血族は途絶えていない。弟のゲロルフは孫のソフィア・ボウイ・マリー(Sophia Bowie Marie)とドミニク・コーネリアス・ヴァレンティン(Dominik Cornelius Valentin)の2人がロンドンで誕生し、弟のドミニクはオーストリア皇帝カール1世の曾孫と2009年に結婚した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Richard Nikolaus von Coudenhove-Kalergi 」があります。




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