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青山 道雄(あおやま みちお、1959年12月17日 - )は、静岡県静岡市出身の元プロ野球選手(外野手)。 == 来歴・人物 == 東海大工高では1977年、夏の甲子園県予選準々決勝に進むが、エース井辺康二を擁する兄弟校〔1999年に合併し東海大翔洋高に。2015年には東海大静岡翔洋高に改称。〕の東海大一高に敗れ、甲子園には出場できなかった。井辺とともに進学した東海大学では在学中首都大学リーグで5度優勝。しかし3年時の秋季リーグ以降は、白武佳久らのいた日体大の台頭により優勝から遠ざかる。1981年の第10回日米大学野球選手権大会日本代表に選出された。大学の一期上に原辰徳、津末英明、市川和正、同期には井辺の他、伊藤寿文がいる。卒業後はプリンスホテルに入社。1983年の都市対抗では一番打者として活躍した。 1983年のドラフト3位で西武ライオンズに入団。 1984年はアメリカ1A・サンノゼ・ビーズに野球留学した。 1990年開幕直前、村岡耕一・河野誉彦との交換トレードで駒崎幸一・秋元宏作と共に横浜大洋ホエールズに移籍すると、その年は62試合出場を果たした。 1992年9月9日、読売ジャイアンツ戦で宮本和知から代打満塁本塁打を記録〔プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、6ページ〕するも、同年現役引退。 翌1993年~1995年横浜二軍外野守備走塁コーチ、1996年~2003年横浜一軍外野守備走塁コーチ、2004年~2006年二軍外野守備走塁コーチ、2007年~2008年一軍外野守備走塁コーチを務めた。 1990年代後半は、主に三塁コーチボックスに入ることが多かったが、ホームインに間に合わなさそうなタイミングでも走者を本塁に突入させてアウトとなり、しばしば得点のチャンスを潰したことから、一部からは「壊れた信号機」と呼ばれた。 2009年から1年間千葉ロッテマリーンズの球団部編成調査担当を務めた。同年10月16日、同球団の一軍外野守備兼総合ベンチコーチに就任した。2011年は一軍総合コーチ。 2012年からは二軍監督を務め同年のイースタン・リーグおよびファーム日本選手権優勝を果たした。 4月28日に、「侍ジャパン大学日本代表 対 NPB選抜」でNPB選抜監督を務める事が発表された〔メンバー発表 日本野球機構公式サイト (2015年4月28日) 2015年5月22日閲覧〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「青山道雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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