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青木 一貫(あおき かずつら、享保19年(1734年) - 天明6年6月28日(1786年7月23日))は、摂津国麻田藩の第9代藩主。 伊予国宇和島藩主伊達村年の三男。母は村年の正室で伊達吉村の娘の富子。正室は青木一新の娘・お薗(青木忠右衛門養女となるも復籍)。子は佐野健行(長男、佐野義行養子)、設楽貞喬(次男、設楽貞猶養子)、米津政佑(三男、米津政従養子)、青木一貞(四男)、青木一寧(五男)、娘(養女とも、渡辺春綱正室)、娘(斉藤利恵正室)ら6男6女がある。官位は従五位下、甲斐守。初名は伊達村銘、青木一載。通称は伊織。 == 生涯 == 第8代麻田藩主青木一新には長男の一在を含む5人の男子がいたが、明和3年(1766年)までに全て早世した。一新自身が先々代一都、先代見典と相次ぐ2人の兄の死を経て家督を継いだこともあって、跡継ぎとして適当な男子が近親者にいないため、婿養子を迎えることになり、まず弘前藩津軽家と交渉したが破談になった。その後、明和6年(1769年)7月頃から青木家と宇和島伊達家の交渉が始まった。青木家は当初、当時の宇和島藩主伊達村候(村年の長男)の庶子のうちで10代初め頃の男子を所望していた。当時まだ幼かった一新の次女の婿として釣り合い、また費用がかさむ幕府への出仕が幼少ゆえに当面避けられることが理由であったが、持参金の問題から話がまとまらなかった。 代わって伊達家から提案されたのが、村候の弟の伊織村銘であった。伊織にも何度か養子話はあったがまとまらず(その中には彦根藩主井伊直定との養子縁組の話もあった)、部屋住みとして宇和島で暮らしていた。伊織はすでに35歳と高齢で一新と年齢が近く、娘とは年齢が開きすぎることから、難色を示した青木家側であったが、家臣の養女にしていた庶出の長女のお薗が成人していたことから、この長女を藩主家に戻した上で伊織をその婿養子とすることを新たに提案した。伊達家側も持参金の上積みなどに応じ、交渉はまとまった。青木家に入った伊織は、諱を一載、のち一貫と改めた。ちなみに一貫の「娘」のうち、渡辺春綱の正室となった一人は、養子話の際に最初に持ち出された一新の次女を一貫が養女にしたのだと一説にいわれる。 明和6年12月7日、幕府に養子縁組(婿養子)願いを提出し、翌明和7年(1770年)2月22日に許可を得る。同年3月15日、将軍徳川家治に御目見する。同年7月26日、一新の隠居により家督を相続した。明和8年(1771年)12月18日、従五位下甲斐守に叙任する。 安永7年(1778年)11月8日、大番頭に就任する。天明4年(1784年)3月9日、大番頭を退任する。天明6年(1786年)6月28日死去、享年53。お薗との間にもうけた四男の一貞が跡を継いだ。法名は養源院殿慈眠衍瑞大居士。 次男の設楽貞喬の孫に、日米修好通商条約などの開国交渉などに当たった旗本の岩瀬忠震がいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「青木一貫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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