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青木 一重(あおき かずしげ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。摂津麻田藩初代藩主。 ==生涯== 青木氏は美濃国の豪族で、戦国時代には土岐氏、斎藤氏に仕えた。 一重は父重直の下を離れ、はじめ今川氏真に仕えて新阪の戦いで首級を挙げ、褒美に黄金を賜った。今川氏没落後は徳川家康に仕え、元亀元年(1570年)の姉川の戦いで真柄直隆を討ち取る武功を挙げたといわれる(直隆ではなく、子の真柄隆基を討ち取ったとも)。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは本多太郎左衛門に従って出陣し、高天神城の守備にあたった。天正元年(1573年)、徳川氏の元を出奔し、織田信長の家臣である丹羽長秀に仕えていた父重直を頼った。その一方、弟の重経は家康に与し武田勢を食い止めるために戦い、討ち死にしたが、これが一重が麻田藩藩主として取り立てられることにつながったと考えられる。 天正10年(1582年)、本能寺の変での信長の横死後も丹羽氏に仕えて山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いなどに参加したが、長秀の死後は羽柴秀吉の家臣に転じ、後に黄母衣衆に選抜された。天正13年(1585年)に摂津国豊島郡内や備中国・伊予国内などに合わせて1万石を与えられる。天正14年(1586年)、従五位下民部少輔に任官。秀吉死後は豊臣秀頼に仕え、速水守久や伊東長実らと共に秀頼の親衛隊である七手組の組頭を務めた。 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の後、和議交渉の一環として家康のもとへ赴いた帰りに京で板倉勝重に捕らえられ、「大坂に戻れば弟可直を処断する」と告げられたために大坂には戻らず、元和元年(1615年)の大坂夏の陣には参加できなかった。その後、剃髪して隠棲していたが、家康に家臣として召し出され、摂津国豊島郡をはじめとする地域に1万2,000石の所領を与えられた。この後、幕府への配慮からか夏の陣で一重の代理で指揮を執っていた養子の正重を廃嫡し、代わりに弟の可直の子である重兼を養子に迎え嫡子とした。後に弟・可直に2,000石を分与する。 1628年(寛永5年)死去。 なお、小牧・長久手の戦いの後、羽柴秀吉が一重を自らの家臣にしたいと家康に頼んだため、秀吉の家臣となり黄母衣衆となったとする書物もあるが、『寛政重修諸家譜』などには丹羽家仕官時代を挟むことが書かれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「青木一重」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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