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青木 幹雄(あおき みきお、1934年(昭和9年)6月8日 - )は、日本の政治家。 竹下登の秘書を長く務めたあと、島根県議会議員(5期)を経て、参議院議員(4期)、内閣官房長官(第64・65代)、沖縄開発庁長官(第38・39代)、自由民主党参議院議員会長を歴任した。 長男に青木一彦参議院議員がいる。 == 来歴・人物 == === 竹下の黒子 === 1934年、島根県簸川郡大社町の漁協組合長を務めた漁師の家に生まれる。1952年3月、島根県立大社高等学校卒業。1952年4月、早稲田大学第二法学部法律学科に入学し、雄弁会では幹事長を務めた。ちなみに、当時の雄弁会副幹事長は森喜朗であった。学生時代に竹下登の選挙を手伝った縁で、そのまま地元・島根で竹下の秘書となり、1956年3月、早稲田大学第二法学部法律学科は中退した。 竹下の「城代家老」として活動し、その後島根県議会議員に当選し後に副議長を務めた。 1986年、竹下の要請を受けて第14回参院選に立候補、当選した。竹下譲りの気配りと腰の低さをもってして、「竹下の黒子」として永田町界隈を奔走。竹下派会長の金丸信が東京佐川急便事件に絡んで議員辞職したことに伴う竹下派後継会長争いで竹下系が小渕恵三を、金丸系が羽田孜を推して分裂した際、斎藤十朗らと伴に小渕支持に奔走。参院竹下派は金丸系である小沢一郎の「参院は(衆院さえ固めれば)後からついて来る」という参院軽視発言が瞬時に伝わり、参院竹下派38人中30人を小渕支持で固めた。 1998年、小渕が内閣総理大臣に選出されると、党参院幹事長に就任した。1999年の第2次改造内閣では野中広務の後任の内閣官房長官として初入閣した。参議院議員が内閣官房長官に就任するのは、第1次海部内閣発足後間もなくスキャンダルで辞任した山下徳夫の後任として環境庁長官から横滑りで就任した森山真弓以来2人目で、初入閣での就任では初めて。この頃、竹下が病床につくようになり、青木が竹下に代わる政界の実力者として注目されるようになる。その後、経世会支配の象徴と言われたTBRビル第4階の竹下事務所を竹下・青木事務所とし、竹下が座っていた椅子に青木が座るようになった。 2000年、小渕首相が緊急入院し意識不明の状態になると、首相臨時代理に就任して内閣総辞職を決定し、後任の自民党党総裁・首相には森喜朗が選出された。しかし、首相臨時代理への就任から森内閣成立の過程が不透明として、「五人組」の一人として批判された。青木が首相官邸での記者会見や臨時閣議で首相臨時代理の指定を受けたと発表したことや衆参両院議長に提出した内閣総辞職通知書について官職詐称の罪や有印公文書偽造同行使罪にあたるとして民主党から告訴されたが、不起訴処分となった。 森内閣では前内閣の閣僚留任という形で内閣官房長官に留任したが、第2次森内閣発足で官房長官を退き、党参院幹事長に再度就任した。竹下・小渕ら幹部が不在となり、橋本龍太郎に代替わりした派閥を野中らと支えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「青木幹雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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