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青木 正児(あおき まさる、、1887年(明治20年)2月14日 - 1964年(昭和39年)12月2日)は、昭和初期の日本の中国文学者である。山口県下関市出身。 字を君雅。迷陽の別号があり、しばしば親しみを込めて迷陽先生と称される。 青木正児は生涯を通じて中国の文学・文物に親しみ、その風雅を愛し、また中国古典文学を文学としての観点から学術評価し、狩野君山、内藤湖南らが興した京都支那学の発展に大きく寄与した学者のひとりである。 従来趣味的な要素の強かった中国食文化・風俗などを、学術レベルで研究し紹介した戦前の日本には数少ない中国学者であった。 四男(末子)で、立命館大学文学部名誉教授中村喬・文学博士(立命館大学)(旧姓青木喬)が、父の研究を引き継ぎ、多くの著訳書を刊行している。 次男青木敦は京都府立大学名誉教授・理学博士(京都大学)。 孫には青木務神戸大学名誉教授元発達科学部長・農学博士(京都大学) 中村亨中央大学商学部教授等がいる。 なお、妻、青木艶子(旧姓 紀藤艶子)は、第3代・6代の宇部市長をつとめた紀藤閑之介の従姉妹。 弁護士の紀藤正樹は甥にあたる。 == 略歴 == *明治20年(1887年)2月14日、山口県下関市の漢方医、青木坦平の次男として生まれる。 *幼少期より、文学や美術を好み学んだ。 *第五高等学校(現・熊本大学)を経て、明治41年(1908年)に創設された京都帝国大学文科大学支那文学科に、第1期生として入学、狩野直喜や幸田露伴らに学ぶ。 *明治44年(1911年) - 支那文学科を卒業。 *大正9年(1920年) - 小島祐馬、本田茂之(蔭軒)らとともに『支那学』誌を創刊。 *漢詩の会「麗沢社」(りたくしゃ)や水墨画の会「考槃社」(こうはんしゃ)に加わり積極的な活動をする。 *大正13年(1924年)〜昭和13年(1938年) - 東北帝国大学教授に就任、支那文学講座を開設した。 *昭和 5年(1930年) 「支那近世戯曲史」により文学博士(京都帝国大学)。 *昭和13年(1938年)〜昭和22年(1947年) - 鈴木虎雄の後任で、京都帝国大学文学部支那文学講座の教授となる。東北帝国大学教授と兼任。 *昭和25年(1950年)〜昭和32年(1957年) - 京都大学文学部定年退官後は山口大学文理学部中国文学教授、山口大学文理学部長を歴任。 *昭和28年(1953年) - 日本学士院会員となる。九州大学文学部講師兼任。 *昭和33年(1958年) - 山口大学定年退官後、立命館大学大学院の特任教授となる。 *昭和39年(1964年) - 大学院での講義終了直後、同大学校内廊下にて心不全のため急逝。享年77。遺著「李白」 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「青木正児」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Masaru Aoki 」があります。 スポンサード リンク
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