翻訳と辞書
Words near each other
・ 青木洋
・ 青木淳
・ 青木淳一
・ 青木淳悟
・ 青木清
・ 青木清 (動物行動学者)
・ 青木清相
・ 青木清高
・ 青木湖
・ 青木湖バス転落事故
青木湯之助
・ 青木満理子
・ 青木源吉
・ 青木源太
・ 青木潤太朗
・ 青木澄十郎
・ 青木熊吉
・ 青木猛比古
・ 青木玄太
・ 青木玄徳


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

青木湯之助 : ミニ英和和英辞書
青木湯之助[あおき ゆのすけ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あお]
 (n) 1. blue 2. green 3. green light
青木 : [あおき]
 (n) 1. Japanese laurel 2. spotted laurel 3. aucuba japonica 4. live tree
: [き]
 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber 
: [ゆ]
 【名詞】 1. hot water 
: [これ]
 (int,n) (uk) this
: [すけ]
 (n) assistance

青木湯之助 : ウィキペディア日本語版
青木湯之助[あおき ゆのすけ]
青木 湯之助(あおき ゆのすけ、明治39年(1906年) - 昭和54年(1979年12月27日)は、日本実業家俳優タップダンサー芸名は、郷宏之(ごう ひろゆき)。和歌山県出身。レストランチェーン紅花BENIHANA)創業者。現在の日本の紅花は四男の青木四郎が取締役である。〔[http://www.benihana.jp/company.html 株式会社紅花ホームページ「会社概要」〕 青木廣彰(ロッキー青木)は長男。
== 経歴 ==
1906年(明治39年)、江戸時代は紀州徳川直参の旗本だった士族の青木家に生まれる。15歳のときに家出し、貨物船に密航を企てるが発見されて放り出され、大阪を放浪。旅芸人一座に拾われる。〔『私なら知恵で売る ベニハナ集団の勇気の物語』青木湯之助著、日本経営出版会刊 書籍コード0034-30400-5822 P.7 〕タップダンサー稲葉実に師事し、大正末期から昭和初期にかけて俳優、タップダンサーとして活躍する。タップダンスの生徒だった、かつと結婚する。
1937年(昭和12年)日本橋にジャズ喫茶エリントンを開業する。〔 『見ろ!痛快に!儲ける!』青木湯之助著、KKベストセラーズ刊 書籍コード0233-011234-7617 P.28 〕 終戦後、焼け野原となった東京に汁粉屋「紅花」を新築開業したことが当たり、以降、本格的にコーヒーショップやレストランなど多角経営に乗り出し、洋食屋チェーン「紅花」を展開することとなる。店名の「紅花」の由来は、焼け野原に咲く1輪の赤い花を、妻かつが見つけたことから。〔 『見ろ!痛快に!儲ける!』 P.45 〕
洋食屋「紅花」の客であった日系二世の商社社長・前岡正美との交流をきっかけに、1955年以降、4回に亘り渡米〔 『私なら知恵で売る ベニハナ集団の勇気の物語』P.3 〕。
1961年(昭和39年)、妻かつ、3人の息子達らと共に力を合わせ、「BENIHANA OF TOKYO」第1号店をニューヨークのマンハッタン西56丁目に開業する。精進料理屋「バンブーハウス」を5,000ドルで買い取り、大改装した上での新装オープンだった。内装材には日本から運んだ合掌造りの梁や柱を使った〔 『見ろ!痛快に!儲ける!』 P.87 〕。続いて第2号店を東56丁目に〔 『私なら知恵で売る ベニハナ集団の勇気の物語』P.170 〕、第3号店をシカゴに開店〔『私なら知恵で売る ベニハナ集団の勇気の物語』P.195 〕。その後、西海岸へ次々と店舗を出店していく〔『私なら知恵で売る ベニハナ集団の勇気の物語』P.224 〕。
1971年、「BENIHANA OF TOKYO」とは別業態の「GASHO OF JAPAN」を四男である青木四郎と開業 〔 『見ろ!痛快に!儲ける!』 P.174 〕。
1979年(昭和54年)12月27日3時40分、死去。享年73。日本橋のレストラン「紅花」の社長・青木四郎は四男。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「青木湯之助」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.