|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 青 : [あお] (n) 1. blue 2. green 3. green light ・ 青木 : [あおき] (n) 1. Japanese laurel 2. spotted laurel 3. aucuba japonica 4. live tree ・ 木 : [き] 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber ・ 玉 : [たま, だま, ぎょく] 1. (n,n-suf) ball 2. sphere 3. coin
青木 玉(あおき たま、1929年11月30日 - )は、日本の随筆家である。幸田露伴の孫、幸田文の一人娘。 東京出身。東京女子大学国語科卒業。1994年「小石川の家」で芸術選奨文部大臣賞受賞。 娘の青木奈緒もエッセイスト。 == 略歴 == 1929年11月30日、父三橋幾之助、母幸田文の一人娘として、東京市芝区伊皿子(現東京都港区)に生まれる〔三橋幾之助は清酒問屋「あまほん」を経営する三橋家の三男。幾之助は幸田家の養子として入籍したが、経営に際しては三橋を名乗っていた。『幸田文全集』第23巻、年譜〕。生後八ヶ月で腸重積で手術を受けるなど、幼少の頃は病気がちであった。 1936年、永田町小学校(現麹町小学校)入学〔『幸田文全集』月報別巻・付録 P111〕。この年、築地で会員制小売り酒屋を開店。三橋本店が倒産〔『幸田文全集』第23巻、年譜〕。 1937年、京橋に引っ越して小売り酒屋を開く。このとき既に幾之助は結核にかかっており、実際には文が店を切り回していた。翌年、幾之助は肺壊疽のため手術を受け回復〔幾之助は1940年に結核のため死去。『幸田文全集』第23巻、年譜〕するも、文と玉は幸田露伴の家に戻り、協議離婚した〔。 1943年、三輪田高等女学校入学〔。 1944年、立川飛行機製作所に動員される〔。 1945年、露伴、文とともに露伴の再婚相手であった八代(やよ)の別居先の長野県に疎開。その後、露伴を伊東に移し、文と玉は土橋利彦宅へ一時留まったのち、千葉県市川市菅野に家を借りて移り住んだ。(翌年、露伴を菅野の家に移した)〔 1946年、東京女子大学入学〔。 1947年、空襲のため焼失した小石川蝸牛庵跡に家を建て、移り住む〔。 1959年、結核予防会結核研究所の医師、青木正和〔のち結核予防会会長。2010年5月29日死去。公益財団法人結核予防会機関誌「複十字 No.334 pp.2-5」 〕と結婚〔。 1961年10月12日、尚が生まれる。12月に小石川蝸牛庵の近所に家を建て引っ越す〔。 1963年4月14日、奈緒が生まれる〔。 1990年10月31日、文が心不全のため死去〔。 以降、幸田文の未刊行作品の編纂、岩波書店版『幸田文全集』の編集委員等をつとめる。 1994年、『幸田文全集』の出版に合わせ、小石川蝸牛庵に引っ越した後の様子を綴った自伝的随筆『小石川の家』を発表し、文筆活動も開始した(なお『小石川の家』は1995年に芸術選奨文部大臣賞を受賞した)〔『文藝別冊 増補新版 幸田文』 河出書房新社、2014年。『小石川の家』 講談社文庫、1998年〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「青木玉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|