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青木 一矩(あおき かずのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。越前北ノ庄城城主。 == 生涯 == 天文10年(1541年)、青木重矩の子として誕生(生年には異説も多い)。母が秀吉の養父・竹阿弥の縁者に当たることから、秀吉とは従兄弟の関係に当たるという。一説には青木一重の青木氏と同族とされるがはっきりしない。 豊臣秀吉に早くから仕え、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに参加する。天正13年 (1585年)の四国征伐の功により1万石を与えられ紀伊国入山城主となる。天正15年(1587年)の九州征伐の後に播磨国立石城に移封。 天正16年(1588年)に越前国大野4万5千石に移封。天正20年(1592年)の文禄の役では肥前国名護屋城に在陣している。文禄3年(1594年)には越前国府中8万石に移封となり、慶長2年(1597年)7月に従五位下侍従に叙任。 慶長3年(1598年)8月の秀吉の死去で、豊臣政権が五大老による合議で運営されはじめると、秀吉遺命として翌慶長4年(1599年)2月5日付け徳川家康ら五大老連署の知行宛行状が発行されて、小早川秀秋は越前国北ノ庄から旧領の筑前国名島30万7,000石へ復帰した。と同時に府中にいた一矩に北ノ庄20万石への転封が命じられ、越前国北ノ庄城主となる。(『毛利家文書』)。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際は病床にありながらも西軍に味方し、北ノ庄城に籠城し、北陸の西軍方の諸将とともに東軍の前田利長と対峙したものの、関ヶ原本戦で西軍が敗戦したことを知ると土方雄久の斡旋により嫡男俊矩を前田利長に人質に差し出し降伏し、戦後の10月6日に病死。享年60。一矩は、千利休に師事する茶人でもあった。 嫡男の俊矩は父の領地のうち2万石を領していた。一矩の死後、前田利長を通じて、家督相続は認めてもらえるよう徳川家康に歎願したものの、許されずに改易された。孫の久矩は大坂の陣の際に豊臣方に味方し戦死している。娘の蓮華院(お梅の方)は徳川家康の側室の1人である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「青木一矩」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Aoki Kazunori 」があります。 スポンサード リンク
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