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青砥 武平治(あおと ぶへいじ、正徳3年(1713年) - 天明8年(1788年))は、越後国村上藩の藩士。サケの回帰性を利用した増殖方法である「種川の制」を創設したことで知られる。 == 経歴 == 正徳3年(1713年)、村上藩士金沢儀左衛門の二男として越後国岩船郡村上町に生まれる。諱は綱義。幼少時に青砥冶兵衛の養子となったため、青砥姓となった。「三両二人扶持(さんりょうににんぶち)」の小身だったが、明和3年(1766年)54歳の時に当時5万余石の村上藩としては異例と思える70石の「石取り侍(こくとりさむらい)」に昇格、天命8年(1788年)76歳で没した。 サケは当時の村上藩にとって、藩政を支える重要な資源であったが、乱獲により枯渇寸前であった。青砥はサケが遡上する三面川に分流を設け、サケの産卵に適した場所に蔦や柴で柵を造り、ここでサケの遡上を阻止して産卵させる、「種川(たねがわ)の制」を考案。種川は宝暦13年(1763年)から寛政6年(1794年)までのおよそ30年にわたって拡張され、制の導入前には多くても200両から300両だった漁獲高が、導入後は1,000両を越えるまでに至った。このため青砥は、世界で最初にサケの母川回帰性を発見した人物、と評されることがある。 種川の制は後に文化3年(1806年)には出羽国庄内藩が月光川水系の滝淵川と牛渡川で行われ、明治になってからは北海道の石狩川などでも取り入れられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「青砥武平治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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