|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 青 : [あお] (n) 1. blue 2. green 3. green light ・ 青葉 : [あおば] (n) 1. fresh leaves, 2. a newly-married woman ・ 葉 : [よう, は] 【名詞】 1. leaf ・ 城 : [しろ] 【名詞】 1. castle ・ 幸 : [さち] 【名詞】 1. happiness 2. wish 3. fortune ・ 雄 : [おす] 【名詞】 1. male (animal)
青葉城 幸雄(あおばじょう ゆきお、1948年11月14日- )は、宮城県仙台市太白区出身で、1970年代から1980年代にかけて活躍した大相撲力士。押尾川部屋(入門時は二所ノ関部屋)に所属した。本名は庄司 幸雄(しょうじ ゆきお)。現役時代の体格は181cm、152kg。得意手は左四つ、寄り、吊り。最高位は西関脇(1983年7月場所)。 == 来歴・人物 == 中学時代はサッカー部に所属していた一方で、小学5年生の頃から自転車やサッカースパイクを買うために新聞配達を行っていた。この新聞配達を冬の雪の中でもひたすら行ったことが、健康面や精神面の修養に効果をもたらした。〔『相撲』2013年11月号76頁〕相撲経験は皆無であったが、横綱・大鵬のような力士になりたいと卒業直前に力士を志し、アルバイトで貯めた金で上京して大鵬が所属する二所ノ関部屋に出向き入門を許可された。卒業後に入門し、1964年3月場所で初土俵を踏んだ。同期の初土俵には、後の関脇・高見山、同・黒姫山らがいる。本人は、「自分は亀、同期生らがいたからここまで来れた」と語る。 なお当初の四股名は、本名に因んだ「大庄司」であった。 入門前に相撲経験がなかったため、幕下でやや苦労したが、1971年5月場所で十両に昇進した。そして、これを機に「大庄司」から、故郷・仙台市にある仙台城の別名に由来する「青葉城」へ改名。 十両でも3年近く苦戦したが、1974年11月場所では上位で10勝5敗と大勝ちし、これを手土産に翌1975年1月場所にて新入幕を果たした。 幕内4場所目の同年7月場所では、終盤まで優勝争いに加わり、横綱・北の湖を破るなど活躍。最終的に、13勝2敗で優勝した同部屋の後輩・金剛に次ぐ12勝3敗という好成績を収め、生涯唯一の三賞(敢闘賞)を受賞した。翌9月場所では、新三役となる小結に昇進するも、6勝9敗と負け越して1場所で平幕に逆戻り。同場所後には、押尾川親方(元大関・大麒麟)の独立騒動に巻き込まれてしまい、押尾川部屋に移籍した。 もみ上げを伸ばした古風な風貌と左四つの型に風格があり、ガッチリとした胸厚の堂々の体格と腕力を活かした自分十分の型になると横綱とも互角に相撲を取り、反面型にならないとあっさりと土俵を割ってしまうことも多かった。また、時には対戦力士に気を遣い過ぎる面もあり、「北の湖二世」と呼ばれて将来を嘱望された小沼を負傷させた際には相手に恨まれたこともあってかかなり気落ちした。そのため、しばらくは成績も伸び悩んだ。 1980年11月場所では十両に陥落したものの、1981年7月場所で十両優勝を果たしたのを機に翌9月場所、幕内へ復帰。再入幕に1年近くを要したが、吊り技に磨きをかけ、1983年7月場所では最高位となる西関脇まで番付を上げた。青葉城にとっては、1975年9月場所以来、47場所ぶりの三役へのカムバックであった。 これは、三役陥落から同復帰までの場所数では、現在でも大相撲史上1位の記録。 また、34歳7ヵ月での新関脇昇進は三賞制定後の1947年以降では、3位の年長記録(現在の1位は、2014年9月場所での豪風。2位は、1957年11月場所に於いての北の洋)。その他、初土俵から関脇初昇進までにかかった年数と所要場所数に於いては、現在(※2014年9月現在)でも歴代1位の記録である。 なお、同場所では4勝11敗と大きく負け越し、三役では1度も勝ち越せずに終わった。 三役から陥落した後も長く幕内上位で相撲を取り続けたが、次第に体力の衰えが隠せなくなり1986年3月、再び十両に陥落。そして、同年7月場所11日目、幕下の綛田(後の関脇・栃乃和歌)に敗れた一番を最後に現役を引退した(なお、翌日に組まれていた魄龍との一番は、不戦敗扱いとなった)。 15歳6ヵ月で序ノ口に付いてから37歳8ヵ月で引退するまで休場が1度もなく(「休場は棄権」という信条を持っていた)「丈夫で長持ち」と言われ、初土俵(序ノ口)以来の連続出場記録保持者としてギネスブックにも登録された。引退してからもなお、停年に至るまで内臓疾患と無縁の健康体が取り柄であり、この長所は大記録と決して無関係でないと言える。〔『相撲』2013年11月号78頁〕 引退後は年寄・不知火を襲名し、押尾川部屋、尾車部屋の部屋付きの親方として後進の指導に当たった。特に、18年間継続して巡業部の職務を担当したことが年寄としての主だった貢献であった。 又、2006年2月から2012年1月までは副理事(就任当初は監事)を務めた。NHKの大相撲放送では、千秋楽の中入り後解説(向正面)を担当することが多かった。2013年11月場所中に65歳の誕生日を迎え、同場所限りで日本相撲協会を停年(定年)退職した。その11月場所中、5日目の大相撲中継で、ゲストとして登場した際に前述の独立騒動を印象深く思っていると話していた。〔『大相撲ジャーナル』2014年2月号103頁〕 2013年5月8日、長男が3月4日に有楽町の丸井で、バナナマンのマネージャーを騙って谷桃子から手荷物を騙し取ったとして窃盗容疑で逮捕された〔谷桃子だまされた!元青葉城息子を逮捕 日刊スポーツ2013年5月9日〕。3月にも、2月21日に渋谷でスカウトを装って女性の財布から現金を抜き取った窃盗容疑で逮捕されており〔元青葉城の長男逮捕 スカウト名乗り、女性から窃盗容疑 毎日新聞2013年3月8日〕、同じ手口で30件もの余罪が疑われているという〔【衝撃事件の核心】ニセの芸能スカウトはドロボーだった… 捜査員も失笑する関取2世の“甘ったれ人生”1/4 2/4 3/4 4/4 産経新聞2013年3月30日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「青葉城幸雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|