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青葉山弘年 : ミニ英和和英辞書
青葉山弘年[あおばやま ひろとし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あお]
 (n) 1. blue 2. green 3. green light
青葉 : [あおば]
 (n) 1. fresh leaves, 2. a newly-married woman
: [よう, は]
 【名詞】 1. leaf 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [ねん, とし]
  1. (n-adv,n) year 2. age 

青葉山弘年 : ウィキペディア日本語版
青葉山弘年[あおばやま ひろとし]
青葉山 弘年(あおばやま ひろとし、本名:高橋 幸一(たかはし こういち)、1950年4月3日 - 1997年9月24日)は、宮城県黒川郡大郷町出身で、1970年代半ばから1980年代にかけて活躍した大相撲力士。現役時代は、木瀬部屋に所属した。身長187cm、体重132kg。得意手は右四つ、吊り。最高位は東小結1979年1月場所)。1部マスコミには起重機と呼ばれていた。
== 来歴 ==
宮城農業高校時代は柔道部に所属し、活躍した。知人から木瀬親方(元前頭9・清ノ森)を紹介され、高校を中退して木瀬部屋に入門。1968年11月場所で初土俵を踏んだ。
以来、順調に番付を上げてゆき1972年1月場所では西幕下筆頭にて4勝3敗と勝ち越し、新十両昇進が期待された。しかし東幕下4枚目で5勝を挙げた白根山宗則に先を越され、3月場所では東に回っただけだった。その3月場所では東幕下筆頭で3勝4敗と負け越し、八番相撲で勝ち4勝4敗(いわゆる「勝ち得」、ただし番付編成上は4勝3敗ではなく4勝4敗)となり、翌5月場所も同じ地位に留まった(前場所は同地位で4勝4敗であるが、4勝3敗から八番相撲で敗れて4勝4敗のため、番付編成上は4勝3敗として扱われる、いわゆる「負け得」)の成績で渥美洋正征が十両に昇進した)。しかし、3勝4敗と負け越してしまい、またもや十両に昇進する事ができなかった。当時の白根山の師匠は伊勢ノ海監事(元前頭1・柏戸)であり、渥美洋の師匠は伊勢ヶ濱理事(元横綱・照國)であったため、大部屋の無形の圧力があったのではないかという噂も流れた。
その後一時は幕下10枚目台に在ったが、1974年5月場所にて、西幕下筆頭で勝ち越しながら十両に昇進できなかった2年前の悔しさを晴らす新十両昇進を果たした。以降は順調に番付を上げ、1975年11月場所で新入幕。同場所では10勝5敗と好成績を残し、敢闘賞を受賞した。筋肉質の長身を生かした、右四つからの豪快な吊り技を見せていた。森繁久彌主演の或るテレビドラマのセリフにも、「青葉山みたいに塩をいっぱい持って来い」と名前が塩撒きの代名詞として登場するほどの派手な塩撒きで人気があった。
自身が細身のソップ型だった事もあり、同時期に活躍した初の外国人関取である高見山大五郎(最高位・関脇、前・東関親方)が超アンコ型で申し訳程度にチョロっと塩を撒くのとは体格も含めて対照的で、2人の取組前の塩撒きは相撲ファンの中でお楽しみとなっていた。また、シンガー・ソングライターの石川優子は青葉山のファンを公言し、とある雑誌の企画で対談を行った事もある。
一時は、幕内上位に定着していた。だが、三役での勝ち越しは1度もなく、関脇昇進を果たせなかった。増位山貴ノ花など、大関からは幾つか勝ち星を挙げたものの(大関戦での勝利は、上記2名からの4勝を含め、計7勝)横綱には1度も勝つ事なく現役生活を終えている。
その後、糖尿病を患ってからは精彩を欠く相撲が多くなり、三役と平幕を往復するのが精一杯であった。
1982年1月場所からは、十両に低迷。糖尿病と体力の衰えにより、この地位でも本来の相撲が次第に取れなくなり、同年9月場所を以って現役を引退した。
引退後は年寄・桐山(後、同・浅香山)を襲名し、木瀬部屋付きの親方として後進の指導に当たりつつ、勝負審判も務めた。だが、持病の糖尿病が悪化し、1997年9月24日に47歳の若さで亡くなった。
没後、浅香山の名跡は師匠の木瀬が管理していたが、停年直前の2000年3月末に同門(立浪・伊勢ヶ濱連合)の魁皇(当時、小結。後に大関へ昇進)へ譲渡している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「青葉山弘年」の詳細全文を読む




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