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太宗(たいそう、テジョン、恭愍王17年5月16日(1367年6月13日) - 世宗4年5月10日(1422年5月30日))は、李氏朝鮮の第3代国王(在位:定宗2年11月13日(1400年11月29日) - 太宗18年8月10日(1418年9月10日))。初代国王李成桂の五男。本名を李芳遠(り ほうえん、イ・バンウォン)という。即位前は靖安君、靖安公〔1392年(太祖元年)靖安君となり、1398年(太祖7年)公侯伯制度導入で靖安公に改称。厳密には“靖安大君”にはなっていない(“大君”の称号ができたのは公侯伯制度が廃止された1401年(太宗元年))。〕。 ==略歴== 幼少時から聡明かつ冷静沈着な人物として知られ、父が在位中はその補佐に当たった。父が隠退した後、兄弟や功臣を排除し、さらには後を継いだ定宗に圧力をかけて譲位させ(第一次王子の乱・第二次王子の乱)1400年、国王となった。その後は国制整備と王権強化を図り、地名を山や川などの自然の漢字が入るように変更した。まず、私兵を廃止して軍備を強化。さらに議政府を最高機関、六曹を中心とする機構をその下に置いた。1401年には「申聞鼓(シンムンゴ)」という制度を作った。この制度は宮殿の前に大きな鼓をつけて悔しい事にあった民がいればその太鼓を打って王に知らせ王の助けを懇請するものである。太宗がこの制度を作ったことは民の都合を自分が直接かかって国を運営するための目的のためだった。1406年には寺院の勢力を減退させるために特権を大幅に削減させた。そして行政法典である『経済六典』に『続六典』を追補し、中央集権化を押し進めた。また、1403年には鋳字所を設立して金属活字による書籍を印刷することにも成功した。 太宗は王権の強化と中央集権の確立のために幾多の功臣と外戚を取り除いた。1402年、咸鏡道で趙思義を中心とした東北面の乱が起こり、一時は朝廷から派遣した軍が敗れるなど苦戦したが、何とか鎮圧した。1404年、太宗は長女である貞順公主の義父である李居易とその息子李佇を逮捕して、3年前にもう結審された罪目でまた流刑にした。1407年には元敬王后の弟である閔無咎(びん むきゅう、ミン・ムグ)・閔無疾(びん むしつ、ミン・ムジル)兄弟らを賜死させた。1415年には最後に生き残った弟である閔無恤(びん むけつ、ミン・ムヒュル)と閔無悔(びん むかい、ミン・ムフェ)も賜死させ、同年李叔蕃(り しゅくばん、イ・スクボン)も追い出した。この事で元敬王后との関係が悪化し、しばしば争うようになった。 対外的には明の永楽帝から朝鮮国王として冊封を受け、対明関係を良好にした。1418年、太宗は王世子に冊封となった長男である譲寧大君が勉強せずに一日中家出して遊んでばかりいるという理由で、三男である忠寧大君(世宗)を王世子に冊封した。そして2カ月後に世宗に王位を譲って上王となったが、王権の安定のために兵権はなおも握り続けた。1419年、朝鮮軍が対馬国に攻め込んだのはこの太宗の命令によるものである(応永の外寇)。1418年、世宗の義父・沈温の末弟・沈泟が太宗がまだ兵権を掌握している行為に不満を抱いて「命令が二つの場所から出ている」と兵曹判書(ピョンジョパンソ)・朴習に言ったが朴習がこの言葉を太宗に知らせると沈泟は逮捕、拷問され、沈温が裏方に指目された。太宗は当時、明に使臣として赴き、帰国途中であった沈温を逮捕して賜死させた。この事件は国王の義父として権力が強まることを心配して太宗と朴習が事件を操作したという事実が後で明らかになった。 1422年、55歳で薨去した。太宗は薨去する際、当時大旱魃が発生しており民たちの苦痛がひどくなることを心配して「余が死んで鬼になれば神々に私の民たちを助けてくれと頼もう」という遺言を残した。そして太宗が薨去すると直ちに空から雨が降った。その後、太宗の命日である5月10日がくるたびに雨が降り出すので、人々はこの雨を「太宗雨」と呼んだ。 子の世宗とともに、李氏朝鮮の全盛期を築き上げた国王として高く評価されている。御陵は献陵である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「太宗 (朝鮮王)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Taejong of Joseon 」があります。 スポンサード リンク
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