|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 雲 : [くも] cloud
靳 雲鵬(きん うんほう)は清末、中華民国の軍人、政治家。北京政府、安徽派の有力軍人で、段祺瑞配下の「四大金剛」の筆頭(他は徐樹錚・呉光新・傅良佐)とされる。後に国務総理も務めた。号は翼清。祖籍は山東省済寧州。弟に安徽派・直隷派の軍人である靳雲鶚。 == 事跡 == 天津武備学堂を卒業し、1902年(光緒28年)に北洋常備軍軍政司参謀処で提調として任用された。李経羲が雲貴総督に任命されると、靳雲鵬も雲南省に赴任し、新軍督練公所総参議に任命された。1911年(宣統3年)10月に武昌起義に呼応した昆明重九起義が勃発すると、靳は昆明から脱出し、逃走した。 1912年(民国元年)に中華民国が成立すると、靳雲鵬は山東省で北洋陸軍第5師師長に任命された。その後、陸軍部次長に異動した。1913年(民国2年)、山東都督に就任する。1914年(民国3年)には泰武将軍位を授与され、督理山東軍務となっている。1915年(民国4年)12月に袁世凱が皇帝に即位すると、靳は一等伯爵に封じられた。1916年(民国5年)、果威将軍に封じられている。 同年6月に袁世凱が死去すると、靳雲鵬は段祺瑞配下の「四大金剛」の筆頭と目され、安徽派の有力幹部となった。1917年(民国6年)、日本へ軍事視察に訪問し、帰国後は参戦軍督練に任命された。1919年(民国8年)、国務総理兼陸軍総長に任命されたが、同じく「四大金剛」の徐樹錚と対立し、病気と称して辞職した。この経緯もあって、1920年(民国9年)7月の安直戦争で安徽派が敗北した後も、靳は国務総理に再任された。 1921年(民国10年)に辞職し、以後は天津のイギリス租界に移住して、日本との合弁会社を営むなど、経済活動に専念した。その後も、中国国民党や日本から政治舞台への復帰を勧められたが、実際には応じていない。晩年は仏門に入り、中華人民共和国建国後も天津に留まっている。 1951年1月3日、天津で死去。享年75。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「キン雲鵬」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Jin Yunpeng 」があります。 スポンサード リンク
|