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韋 昭(い しょう、? - 273年)は、中国三国時代の呉の政治家・儒学者・歴史家。字は弘嗣。揚州丹陽郡雲陽県(江蘇省丹陽市)の人。子は韋隆。 『三国志』「呉書」では韋曜と記載されている。これについて、裴松之は注の中で、晋の司馬昭と諱が同じであることを避けるための(避諱)とするが、清の銭大昕は、『三国志』では「昭」の名を持つ人物が多数見られ、「薛綜伝」の中には、韋曜と連名で周昭なる人物が挙げられている箇所があることから、元々「韋曜」という名も持っていたのであろうと推測する。 == 略歴 == 丞相府の役人をはじめに、西安県令・尚書郎を務め、太子中庶子に昇進して当時の皇太子である孫和に仕えた。この頃に孫和の命を受けて、『博奕論』を著して博奕(六博や囲碁)を批判している。 孫亮が即位すると、諸葛恪の推薦を受け太史令となり、華覈や薛瑩らと共に『呉書』の編纂を担当した。孫休には盛沖と共に侍講への就任を望まれたが、政治を専断していた側近の張布に阻止された。 孫皓の代には当初は寵愛を受け、高陵亭侯・侍中・左国史に採り立てられた。 しかし、よく正論を吐き、孫皓の意に沿わぬ言動が重なったため、次第に冷遇されるようになった。『呉書』において孫皓の父孫和の本紀を立てるよう命じられた際、太子で終わった孫和には伝を立てるべきと回答し、これを拒否したことがその一例である。 憂いと病気を理由に辞任を要望したものの、孫皓は医者と薬を送り任務を続行させた。また、酒が苦手であった韋昭に対し、酒好きであった孫皓は飲酒を無理強いした。さらに、孫皓が側近を酒宴に同席させて、群臣の欠点を論うことをよく要求したが、韋昭はこの風潮を良しとせず積極的に同調しなかった。 鳳凰2年(273年)に投獄された。韋昭は『官職訓』・『辯釈名』を献上し赦免を請い、華覈も「韋昭は『呉書』を完成させるためになくてはならない人材だから」と述べて何度も助命嘆願をしたが、結局処刑された。家族は零陵に配流された。 年齢について、華覈が上記の嘆願文中で「年七十になり」と述べていることから、享年は70以上と推定される。 著作には『毛詩答雜問』・『孝経解讃』・『辯釈名』・『呉書』・『洞紀』・『漢官典職儀式選用』・『国語注』がある。『国語注』は現存し、春秋外伝『国語』の注として重要な書物である。 なお小説『三国志演義』には登場しない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「韋昭」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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