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韋煥章[い かんしょう]
韋 煥章(い かんしょう。1892年 - 没年不明)は中華民国、満州国の政治家。字は秀実。満州国では外交部大臣などをつとめた要人である。 == 事績 == 1909年(宣統元年)、遼陽師範学校を卒業。以後、遼陽第一民立小学校長、奉天省教育庁第一科科長、同庁代理庁長を歴任した〔〔。 1931年(民国20年)の満州事変(九・一八事変)後から、満州国建国工作に参加し、奉天教育事務籌備処処長に任ぜられた。翌年に満州国が正式に成立した後に、奉天省教育庁庁長に就任している〔〔。1937年(康徳4年)7月1日、哈爾浜特別市市長に任命される〔「満州の人事異動 行革に伴い七月発令」『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)6月12日。〕。翌1938年(康徳5年)2月10日、浜江省省長となり〔「満州国人事異動」『東京朝日新聞』昭和13年(1938年)2月11日夕刊。〕、同年7月、修好経済使節団団長として「防共諸邦」を歴訪した〔尾崎監修(1940)、3頁。「防共諸邦」とはドイツやイタリアのことと思われる。〕。 1940年(康徳7年)5月16日、韋煥章は外務局長官に任ぜられる〔「東人西人 満州国外交の支柱 韋外務局長官」『朝日新聞』昭和15年(1940年)9月14日。〕。1942年(康徳9年)4月20日、外務局が外交部に戻り、韋はそのまま大臣に留任したものの〔「満州国に外交部」『朝日新聞』昭和17年(1942年)4月20日。〕、わずか5か月後の9月28日に大規模な大臣の入れ替えで辞任、参議府参議に転じた〔「共栄圏の重責完遂へ 満州国大臣全面更迭」『朝日新聞』昭和17年(1942年)9月29日夕刊、1面。〕。1944年(康徳11年)1月17日に恩賞局が新設されると韋が総裁を兼任することになる〔「満州国恩賞局総裁」『朝日新聞』昭和19年(1944年)1月18日夕刊。〕。1945年(康徳12年)3月、奉天省省長に任命された〔劉ほか編(1995)、1189頁。〕。 満州国が滅亡した直後、韋煥章は張景恵に、蒋介石と連合して自立すべき旨を進言した〔哈爾濱地情網。〕。しかし、まもなく2人ともソ連軍に逮捕され、シベリアで収監された。1950年、他の満州国要人たちと共に中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所に収監される。没年は不明だが、そのまま収監中に病没した〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「韋煥章」の詳細全文を読む
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