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韓 琦(かんき、1008年 - 1075年)は、中国北宋の政治家。字は稚圭。相州安陽(現在の河南省安陽市)の人。南宋の宰相の韓侂冑の曾祖父にあたる。 == 概要 == 天聖5年(1027年)の科挙で次席合格(榜眼)し進士となる。康定元年(1040年)陝西帥臣に任命されると西夏攻撃を主張、遠征を試みるが,六盤山(現在の寧夏隆徳)にて1万人の損害を出して失敗に終わる。翌年も范仲淹とともに西夏を攻撃するが1万弱の軍勢が全滅する大敗を喫すなどの失策があった。慶暦3年(1043年)、枢密副使に就任、范仲淹、富弼などが推進する慶暦の新政に積極的に関与している。 嘉祐2年(1057年)、蘇轍が進士に及第すると、当時枢密使であった韓琦に書簡を送り、今後の政策提携を打診している。このときの書簡が現在『上枢密韓太尉書』と称されるものである。 嘉祐3年(1058年)、宰相に就任する。英宗即位後は魏国公に封じられ、神宗が即位すると相州に出判している。元老重臣として王安石の変法に終始反対した。 熙寧8年(1075年)、67歳で病死した。 徽宗の時、功績から魏郡王を追贈された。 朱熹はその著書である「三朝名臣言行録」のうち一巻を全て韓琦にあてている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「韓キ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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