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韓 匡嗣(かん きょうし、918年 - 983年)は、遼(契丹)の政治家・軍人。字は天儞。本貫は薊州玉田県。 == 経歴 == 韓知古の三男として生まれた。医術を得意として、長楽宮に宿直し、皇后の子のように可愛がられた。応暦10年(960年)、太祖廟詳穏となった。後に宋王耶律喜隠が乱を起こすと、匡嗣は喜隠についたが、穆宗に責任を問われなかった。 景宗が即位すると、上京留守に任じられた。ほどなく燕王に封じられ、南京留守に転じた。保寧末年、南京留守のまま枢密使を兼任した。 耶律虎古が北宋への使者をつとめて帰国すると、宋軍が北漢を奪取することが予見されるので、先だって備えをしておくように主張した。しかし匡嗣はあなどって、これに反対した。乾亨元年(979年)、宋軍は北漢を滅ぼし、勝利に乗じて燕雲十六州に迫った。匡嗣は南府宰相の耶律沙や惕隠の耶律休哥とともに宋の鎮州に侵入し、満城に陣を布いた。宋軍が降伏を願い出てきたので、匡嗣はこれを受け入れようとした。耶律休哥は「敵軍の気力は充実しており、我が軍を誘っているものと疑われます。兵士に守りを固めさせるべきです」と主張したが、匡嗣は聞き入れなかった。とつじょ宋軍は契丹の陣営に肉薄し、匡嗣は抗戦することもできず、軍旗を棄てて遁走し、易州の山に逃れた。この敗戦でひとり耶律休哥のみが遺棄された兵器を回収し、自軍を整然と撤退させた。景宗は激怒して匡嗣の罪を数え、処刑しようとした。しかし睿智蕭皇后のとりなしで杖罰を受けるのみですんだ。 後に晋昌軍節度使を遙任した。3年(981年)、西南面招討使に転じた。5年(983年)12月8日、死去した。享年は66。尚書令の位を追贈された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「韓匡嗣」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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