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韓国広足(からくに の ひろたり、生没年不詳)は、7世紀末から8世紀の日本にいた呪術者である。姓(カバネ)は連。氏は物部韓国(もののべのからくに)ともいう。役小角を師としたが、699年に小角を告発した。呪禁の名人として朝廷に仕え、732年に典薬頭になった。外従五位下。 == 事績 == 韓国氏は古代の有力氏族である物部氏の分かれで、先祖が遣わされた国にちなんで改姓したと伝えられる〔『続日本紀』延暦9年11月壬申(10日)条。〕。在来の氏族ではあるが、その系譜から外来の知識・技能を学ぶに適した伝統があったと思われる〔下出積與「令制下の呪禁」111頁。鈴木昭英「役小角伝承における韓国連広足」8頁。〕。 『続日本紀』によれば、文武天皇3年(699年)5月24日に呪術者の役小角が伊豆島に遠流された。外従五位下韓国連広足は小角を師としたが、後にその才能をねたんで(あるいは悪いことに使われ)、妖惑だと讒言した〔『続日本紀』文武天皇3年5月辛酉(24日)条。以下、特に出典を記さないかぎり歴史事実については『続日本紀』の当該年月条による。〕。この箇所の解釈には、讒言したのは誰か別の人であるとしたり〔広足が讒言したとするのは、宮家準『役行者と修験道の歴史』。別の人と考えるのは新古典文学大系『続日本紀』1の17頁、注20。宇治谷孟訳『続日本紀』上23頁。〕、そもそも広足が小角を師としたくだりが後世の挿入だとする説もある〔鈴木昭英「小角伝の韓国連広足に就て」53-54頁。〕。『続日本紀』には外従五位下とあるが、韓国がこの位を授けられたのは天平3年だから、この時点ではもっと低かったはずである〔平泉洸「鈴木昭英氏『小角伝の韓国連広足に就て』」98頁。〕。役小角は修験道の祖として有名な人だが、確かな歴史事実はこの事件のみで、他の事績は伝説に包まれている。妖惑とされた事実の有無・内容については不明だが、「讒言」という評価は『続日本紀』が編纂された100年後までの後世にできたものであろう〔平泉洸「鈴木昭英氏『小角伝の韓国連広足に就て』」98頁。〕。 韓国広足は、『藤氏家伝』の「武智麻呂伝」に、余仁軍とともに呪禁の名人として記される。また、大宝令の注釈である『古記』に「道術符禁は道士の法で今辛国連がこれを行なう」とある。この辛国連(韓国連)は、広足のことであろう〔鈴木昭英「小角伝の韓国連広足に就て」52頁、鈴木昭英「役小角伝承における韓国連広足」9頁。日本思想体系新装版『律令』542頁注2a。下出積與「令制下の呪禁」112頁。新古典文学大系『続日本紀』1の281頁注114。〕。広足の呪禁は道教的な術であったと考えられる〔鈴木昭英「小角伝の韓国連広足に就て」51頁。下出積與「令制下の呪禁」111-112頁。宮家準『役行者と修験道の歴史』21-22頁。〕。 天平3年(731年)1月27日に物部韓国広足は外従五位下になった。翌4年(732年)10月17日に典薬頭に任命された。典薬寮には呪禁博士1人、呪禁師2人、呪禁生6人が配属されていたので、広足は朝廷の呪禁者として勤め、典薬頭に上りつめたのであろう〔鈴木昭英「小角伝の韓国連広足に就て」51頁。〕。その後の事績は不明である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「韓国広足」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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