|
韓延之(かん えんし、生没年不詳)は、東晋から北魏にかけての官僚・軍人。字は顕宗。本貫は南陽郡赭陽県。 == 経歴 == 魏の司徒の韓曁の後裔にあたる。東晋の安帝のとき、建威将軍・荊州治中となり、平西府録事参軍に転じた。415年(義熙11年)、劉裕が司馬休之を討つにあたって、劉裕は延之のもとにひそかに信書を送って招こうとしたが、延之は激越な言葉で罵って断り、司馬休之に従った。司馬休之が敗れると、延之はともに後秦に亡命した。417年(泰常2年)、司馬文思らとともに北魏に帰順した。延之は虎牢鎮将となり、魯陽侯の爵位を受けた。再び洛陽に都が置かれる日の来ることを予見して、死後は栢谷塢に北向きに葬るよう遺言した。死去すると、遺言に従って魯宗之の墓のそばに葬られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「韓延之」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|