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韓復ク[かん ふくく]
韓 復榘(かん ふくく)は中華民国の軍人。北京政府、国民軍、国民政府(国民革命軍)の軍人。国民軍では、馮玉祥配下の「十三太保」〔韓復榘に加え、孫良誠、石友三、張維璽、過之綱、劉汝明、聞承烈、佟麟閣、孫連仲、韓多峰、程希賢、葛金章、趙席聘の13人を指す。〕の1人と称された。字は向方。 == 事跡 ==
=== 国民軍での活躍 === 私塾教師の子に生まれる。初めは学問を志したが、貧困のため1910年(宣統2年)から軍に加わり、馮玉祥の営に配属された。清末に馮が灤州起義を起こした際には、韓復榘も参加した。失敗後に韓は帰郷したが、民国成立直後に馮の下に帰参し、以後第16混成旅や第11師などで順調に軍歴を重ねている。〔沈(1978)、243頁。〕〔徐主編(2007)、2659頁。〕〔劉国銘主編(2005)、2269頁。〕 1924年(民国13年)10月の北京政変後に、国民軍が結成されると、韓復榘は国民軍第1軍第1師第1旅旅長に任命された。翌年春、第1師師長に昇進した。1926年(民国15年)の南口の戦いでは、山西省の閻錫山が国民軍の後背を脅かしてきたため、僚友の石友三とともに山西軍を迎撃、善戦した。しかし国民軍は同年8月に、ついに南口を放棄する。張之江らの本隊は綏遠省へ撤退したが、韓と石はそれに従わず、閻に降伏した。〔〔〔 同年9月、馮玉祥が帰国して五原誓師を行うと、韓復榘は馮の下に復帰し、国民聯軍援陝第6路総指揮に任命された。1927年(民国16年)6月、国民聯軍が国民革命軍第2集団軍に改組されると、韓は第2集団軍第6軍軍長に任命され、中国国民党の北伐に参戦して軍功をあげた。10月、第2集団軍の縮小を経て、韓は第20師師長に任命され、鄭州に駐屯した。12月、韓は馮玉祥の推薦により河南省政府主席に就任した。しかし韓は第20師への指揮権を喪失し、しかも第20師は韓と不仲の石敬亭に委ねられてしまう。これは、韓の馮に対する反感を掻き立てることになった。〔沈(1978)、頁。〕〔〔
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