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韓徳威 : ウィキペディア日本語版
韓徳威[かん とくい]
韓 徳威(かん とくい、942年 - 996年)は、(契丹)の軍人は普鄰。
== 経歴 ==
韓匡嗣の子として生まれた。保寧初年、上京皇城使・儒州防禦使を経て、北院宣徽使となった。乾亨末年、父の喪のため辞職したが、復職すると臨時の西南招討使をつとめた。統和元年(983年)、党項15部の侵入を受けると、一戦してこれをしりぞけた。突呂不部と迭剌部の糾軍を領知した。稍古葛を平定した功績より、正式に西南招討使に任じられた。
夏州の李継遷北宋から離反して契丹についたとき、徳威はかれを受け入れるよう契丹側で根回しした。李継遷が契丹についたため、西方の諸民族もまた契丹に服属した。4年(986年)、惕隠の耶律善補とともに北宋の楊業を討った。6年(988年)、開府儀同三司・政事令・門下平章事の位を加えられた。ほどなく山西の城邑の多くを失陥したため、兵権を剥奪された。10年(992年)、李継遷がひそかに北宋についたため、徳威は兵を率いて赴いたが、李継遷は西征にかこつけて出てこなかった。徳威は霊州を略奪して帰還した。
14年(996年)、再び党項を討った。この年のうちに死去した。享年は55。兼侍中の位を追贈された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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