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韓茂[かん ぼう] 韓茂(かん ぼう、生年不詳 - 456年)は、北魏の軍人。字は元興。本貫は安定郡安武県。 == 経歴 == 韓耆の子として生まれた。若くして膂力は人に優れ、騎射を得意とした。明元帝が丁零の翟猛に対して親征すると、韓茂は従軍して中軍執幢をつとめた。ときに突風が起こって、諸軍の旌旗はみな倒れたが、韓茂は馬上で旗を持って、傾けることがなかったため、明元帝の目に留まった。行在所に召して、騎射を試させると、明元帝は韓茂の腕前に感心して、虎賁中郎将に任じた。 426年(始光3年)、太武帝が夏の赫連昌を討つと、韓茂は従軍して勝利を収めた。軍功により蒲陰子の爵位を受け、強弩将軍の号を加えられ、侍輦郎に転じた。427年(始光4年)、夏の統万への攻撃に参加し、これを陥落させた。430年(神䴥3年)、夏の平涼への攻撃に参加し、弓弦に応じて敵兵を倒してみせたため、太武帝に武勇を讃えられた。内侍長に任じられ、九門侯の爵位を受け、冠軍将軍の号を加えられた。435年(太延元年)、楽平王拓跋丕らとともに北燕を攻撃した。438年(太延4年)、太武帝の北伐に従って、柔然をたびたび破った。439年(太延5年)、北涼に対する征戦に参加して、前鋒都将となり、多くの戦功を挙げた。司衛監に転じた。前後の功績により、散騎常侍・殿中尚書に任じられ、安定公の爵位を受け、平南将軍の号を加えられた。 445年(太平真君6年)、高涼王拓跋那とともに相州の陽平郡に駐屯し、冀州の民を徴発して碻磝津に浮橋を造った。446年(太平真君7年)、薛永宗や蓋呉の乱を討った。都官尚書に転じた。450年(太平真君11年)、太武帝の南征に従って懸瓠を攻撃し、宋軍をたびたび撃破した。この南征において、韓茂は高涼王拓跋那とともに青州に進出した。魏軍が淮水を渡ると、降伏する者が相次ぎ、韓茂は徐州刺史に任じられて降人の慰撫にあたった。太武帝が平城に帰還すると、韓茂は侍中・尚書左僕射となり、征南将軍の号を加えられた。452年(正平2年)、太武帝が死去すると、宋の檀和之が済州に進攻してきたため、韓茂は南安王拓跋余の命を受けて討伐に向かった。済州に進軍すると、檀和之は退却した。 文成帝が即位すると、韓茂は尚書令に任じられ、侍中・征南大将軍の任を加えられた。韓茂は沈毅で篤実な性格で、学問はなかったが、その議論は理にかなっていた。将軍としては、兵をいたわり、武勇は当時に冠して、朝廷に称揚された。456年(太安2年)夏、太子少師を兼ねた。冬に死去した。涇州刺史の位を追贈され、安定王に追封された。諡は桓王といった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「韓茂」の詳細全文を読む
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