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項燕[こう えん] 項 燕(こう えん、? - 紀元前223年)は、古代中国の戦国時代末期の楚の大将軍。下相(現在の江蘇省宿遷市宿城区)の人。 楚の将軍項寄彬の子で、弟に項芳。西楚の覇王項羽とそのいとこ項荘の祖父にして、項嬰、項梁、項伯、項仲の父〔項一族の家系図『東流 項氏宗譜 一巻』 "良公次子 二十六世 寄彬 「居下相,任楚将,娶屈氏,生子二: 燕、芳。」" "寄彬長子 二十七世 燕 「字叔燕,楚国大将,居下相王陵里,立昌平君,为荊王,以功高封东平君,娶申氏,生子四: 嬰、梁、伯、仲。」" "燕公長子 二十八世 嬰 「又名英,与弟梁同起兵攻秦,守彭城,娶龙氏,生一子: 籍。」" "嬰公之子 二十九世 籍 「字羽,号西楚覇王,娶虞氏,生一子: 隆。」"〕。秦の武将李信を大破したが、まもなく後の秦が楚を滅ぼした戦争の中、兵は敗れ、戦死または自決した。 『史記』項羽本紀の記載によると、項氏は代々楚の武将として働き、項という邑に封ぜられた。これが項姓の祖先である。項燕の祖父項良や曾祖父項浚も楚の上将軍であった〔項一族の家系図『東流 項氏宗譜 一巻』 "节公次子 二十四世 浚 「仕楚国上将,居洙泗泽,娶韩氏,生子一: 良。」"〕。 == 項燕の敗亡 == 紀元前225年、秦の武将李信が20万の大軍を率いて楚に進攻したが、楚の大将軍項燕はこれを破り、秦軍はほとんど全軍が覆没した。 紀元前224年、秦の武将王翦がまたもや60万の大軍を率いて楚に進攻、王翦は堅守・不出の戦術を悟って採用し、項燕の防備に隙ができるように仕向けた後、項燕の軍を奇襲して楚軍を大破、楚王負芻は俘虜となり、項燕は淮水以南で楚の公子昌平君を楚王として擁立して反抗した。次の年、王翦は楚軍を追撃、昌平君、項燕ともども死亡し、楚は滅亡した(『史記』秦始皇本紀による。『史記』楚世家では項燕の死後に負芻が捕虜となっている)。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「項燕」の詳細全文を読む
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